ジェレミア・ゴットバルトは、日本の仮政庁───かつてルルーシュ皇帝が政庁として定めていた建物の一室にいた。ここに一時身を寄せているある人物に呼び出され、夜の闇にひそむようにして訪れたのだ。
彼はもはやこんなところに呼び出されるような立場の人間ではなかった。
悪逆皇帝ルルーシュが倒されてまだ二日。ルルーシュ皇帝に付き従い、その悪辣な政策の一助をなしていたジェレミアは、いかに脅されていたと主張したとしてもその罪が許されることはありえない。
捕らえられ、死罪、あるいは投獄されないのはひとえに世界が混乱の渦の中にあるからにすぎなかった。そしてまた世界が混乱から立ち直った時には、そうした粛正は忌避されるところになるだろう、というのがジェレミアのかつての主君の見解であった。
もはや貴族でもなく、どころかまともな人間ですらない彼が今後表舞台に立つことはない。また、ジェレミア自身もそうであることを望んでいた。
けれど、とジェレミアは思う。
けれど表舞台に立つことでなければ、そして彼の敬愛する主君が望むであろうことを為すためであれば、今後も影で動くことに依存はない。そう───こうして目の前にいる人物に呼び出されたように。
「お呼びにしたがい参上しました」
ジェレミアは床に膝をつき、主君に対するのと同じ礼を取りながら低く言った。そして顔をあげないまま、目の前にいるその人の名を続ける。
「ナナリーさま」
「────顔を上げてください、ジェレミア卿」
ジェレミアの眼前に座る人物……彼のかつての主君の妹君であるナナリー・ヴィ・ブリタニアは、ひそやかな声でジェレミアにそう言った。
シュナイゼルの側に与していた彼女はルルーシュによって捕らえられ、もう少しで処刑される所だった。ゆえにルルーシュ皇帝が倒れたいま、たとえ血縁とはいえ彼女を糾弾するものはいない。総督として立っていた時も日本に対して誠実であろうとした彼女の姿勢を評価するものも多く、車椅子の無力で可憐な少女であるということも相まって、ナナリーを危険視する見方はなかった。
ナナリーはコーネリアらと共にいったん日本政府──というよりは黒の騎士団である──に預かりの身となり、数日後にはブリタニアに帰国することになっている。ブリタニアと言う国はもはやなかったが、誰かがそこに暮らす者たちを落ち着かせ、まとめていく必要があるのだ。
ナナリーはおそらくブリタニアという国の象徴として、その筆頭に立っていくと目されている。それはもちろん、ナナリーが兄のした行為を憎み、彼とはまったく違う思想を持つ、ということを前提としているのだけれど。
「あなたにお願いがあるのです」
しかし兄を憎むはずの彼女は、彼の忠実なる臣下であったジェレミアの前にたった一人で座し、真摯な目で彼を見つめて言うのだ。
「私自身には為すことはかなわないことですし、ス…ゼロはもう隠密に動くことはできません。咲世子さんにお願いすることも考えましたが、できれば…あなたに」
「なんなりとお申し付けください」
主君の妹君に、他でもない彼に頼みたいのだと言われて、ジェレミアは感動にうちふるえながら即座に言った。ナナリーの現在の立場からすれば、ジェレミアと接触することさえ危険を伴うはずだ。それを押してでもジェレミアに頼みたいのだと言われることは、彼にとって至上の喜びだった。
ナナリーはしかし、喜色を浮かべたジェレミアを沈んだ目で見つめて、少しためらいながら口を開いた。果たしてそれを願っていいものか悩むように、人に聞かれることをはばかるように声をひそめて。
「兄の遺体を…盗み出して欲しいのです」
「───ご遺体を」
予想外のナナリーの言葉に、ジェレミアは思わずおうむ返しに繰り返していた。
いや、予想外…ではなかったかもしれない。たしかにジェレミアもまたルルーシュの遺体がどうなったのか気にかけていたし、ナナリーが実際にはいまも兄であるルルーシュを敬愛していることを彼は知っていたのだから。
「まだ世界は混乱の中にあり、お兄さまの遺体をどう…ということにはなっておりません。けれど世の中が落ち着けば、下手をすれば晒されてしまうことになりかねません。そんなこと、私は耐えられない…それに───」
それに…なんなのか、なにを、誰のことを思うのか、ナナリーはそれを口にすることを憚るように言葉を途切れさせた。
ルルーシュの遺体が晒されることになれば、心を痛めるのは彼女とジェレミアだけではない。おそらくそのことでもっとも傷つくだろう人間は、彼ら二人のうちのどちらでもなかった。
ナナリーは、もはや傷つくことすら許されないその人物を思うようにふと視線をさまよわせ、それからまた目を伏せて言葉を続けた。
「そうでなくとも、きちんと埋葬することは許されません。私の立場からして、晒さないで欲しいとも、埋葬させて欲しいとも、願うことはけしてできない」
己の最愛の妹であるナナリーさえ、なにも知らぬまま彼を糾弾し、そして彼の破壊した世界によりよい未来を築いていくこと……それこそがルルーシュの望んだことだった。彼女はいかにしてかルルーシュの真に為そうとしたことを知ってしまってはいたけれど、彼の思いを汲み取って、彼の望んだ明日を作ろうとしている。そのためにも彼女は、兄をいまも愛しているところを少しでも見せるわけにはいかないのだ。
「お兄さまは今も安置所にいます」
自分の力のなさ、不用意に動くわけにはいかない立場の窮屈さを噛みしめるように手をぎゅっと握りしめて、ナナリーは搾り出すようにそう言った。その言葉に喚起されて、ジェレミアの脳裏にはさみしく冷えきった安置所の景色が思い浮かぶ。室温を低く保ち、照明を落とした無機質な部屋に、あのうつくしい方がひっそりと一人で眠っている。見守るものの一人もなく、花ひとつ飾られない場所で、本来ならば世界を救った英雄である人物が眠る姿を思うと、胸が苦しくなった。
そうやってうち捨てられることが彼の望んだことであったとしても、彼を愛していた人間がそれを悼むことは、いまは亡きルルーシュには止める術もないことだ。
「遺体に対する警備は通常のものですが、見つかればあなたの今後の立場はますますあやしいものとなるかもしれません。……これはただの感傷です。遺体は遺体であってお兄さまではない。ですからジェレミア卿、あなたはこれを断ってくださっていいんです」
まるでジェレミアが断ることをこそ望んでいるかのような口調で、ナナリーは言う。けれどジェレミアにはそれは、自分の感傷で人を危険に晒すこと、自分で動くことができないふがいなさを噛みしめている言葉に聞こえた。
歩けない不自由な体でありながら、いまだいとけない少女の身でありながら、彼女は人の手にすがることをよしとしない。日常の中では人の手を借りなければ生きてこれなかったせいだろうか。必要以外の所で人をわずらわせることを彼女は嫌うようだった。おそらく彼女が不自由のない体であれば、自分で考え、自分で決断・行動する、かなりしっかりとした女性に育っていたのではないだろうか。
「いいえ、ナナリー様」
やはりあの方の妹君だ、と思いながら、ジェレミアは首を振った。
「あなた様の願いは、私の願いでもあります。私もまた、あの方のご遺体が晒されるなど耐えられない。あの方にはふさわしい場所で眠っていただきたい」
あなたに命じられることこそが己の幸福なのだ、と説いても始まらない。ジェレミアは自分自身がそれを為したいのだと言うことで、ナナリーを納得させることにする。
「ぜひやらせてください」
ジェレミアがはっきりとそう言うと、ナナリーは少しほっとした顔をした。感傷に過ぎないとは言いながらも、やはりルルーシュの遺体をきちんと埋葬できないことに彼女はかなり心を痛めていたのだろう。それに彼が亡くなっても、ジェレミアの彼への忠誠が変わっていないことにも安堵したに違いなかった。
ルルーシュに付き従っていたものたちも今では、脅されていたのだと主張して、口々に彼を罵っているのだから。ロイドたちのように真実を知っているものばかりではない。むしろ彼らはその後沈黙している。欲得からルルーシュに従っていた者たちは、いまでは手のひらを返したようにルルーシュを悪し様に言っているのだ。
それがルルーシュの望みだったとはいえ、彼に忠誠を誓い続けるものがいないのはナナリーにとってつらいことだっただのだろう。
「ご遺体はブリタニアの皇族墓所へ?」
「いいえ」
ジェレミアの問い掛けにナナリーは小さく首を振って、それからひそやかな声で続けた。
「いいえ、できれば     の  に」
「それは……」
ナナリーの予想外の言葉に、ジェレミアは戸惑って返す言葉に迷った。そこにルルーシュを埋葬することが無理だということではない。おそらくその場所は半ばうち捨てられ、警備などまるでないに違いない。そう言った意味で問題はないのだけれど……
「兄もそれを願うと思います」
「───ゼロが反対するのでは」
どう答えるべきか迷って、ジェレミアはとりあえずありえそうなことを言ってみた。ゼロはあの日以来ナナリーに付き従っている。今はあえて席を外させているようだが、この建物の中にはいるのだろう。ルルーシュの遺体を盗み出せばそれは彼にも伝わるだろうし、そうすればナナリーがそれをどうにかしたと彼が思うのは必然のことだった。
「言わせておけばいいのです」
あでやかに微笑んでナナリーは言った。その笑みには少女らしい悪戯っぽさと、すべてを越えたものの晴れやかさと、そしてなんともいえないせつなさが含まれている。この笑みを見ればゼロもなにも言えないのではないかと思えた。あどけない少女だったはずの彼女に、こんな表情をさせるようにしたのは彼に他ならないのだから。
「あの方はお兄さまを連れていってしまったのだもの。それにあの方はもう     ではない。その名は、お兄さまが共に連れていったのですから───だから」
だから、とそう言葉を切って、ナナリーはふと視線をさまよわせた。
かつて閉ざされていたその瞳が今、なにを見るのかジェレミアにはわからない。けれどきっと、自分が脳裏に思い浮かべるのとおなじ面影を見るのだろう、とそう思った。
彼らを置いていった、あのうつくしいカリスマの姿を。
もう二度と見ることはかなわない、あのはかない微笑みを。



ジェレミアはナナリーから与えられたその任務───願いを、その日のうちに実行に移した。
気持ちが逸ったということもあったが、これ以上日を置けば世界が落ち着き始めて、誰かがルルーシュの遺体のことを思い出さないとも限らなかったし、実際問題として、遺体が腐り始める可能性もあったからだ。
ジェレミアはもはや生身ではない己の肉体の能力を利用して、政庁のセキュリティシステムに干渉し、できるだけ警備の者と対することなくルルーシュの遺体を盗み出した。
警備の者に見つかっても相手を倒して逃走する自信はあったが、できるだけ騒ぎを起こさずにいて、ルルーシュの遺体が盗み出されたということを表ざたにせずにすむようにしたかったのだ。それを知っているものが数人であれば、遺体がなくなったという事実を世間に隠し通すこともできる。
間違ってもルルーシュの遺体がどこに行ったのかと、探されるようなことにはしたくなかった。
ジェレミアは直接その部屋を警備していた人間二人を、空気中に催眠薬を流して眠らせ、ルルーシュの遺体を布で包んで盗み出した。そのままナイトメアに運び込み、誰にもみつかることなく一直線に目的地をめざしたのだ。
遺体を盗み出すその時は急いでいてほとんど遺体を見ることもなく布地に包み、移動中もなぜか不敬な気がしてジェレミアはルルーシュの遺体にふれることはなかった。
夜のうちに目的地に到着し、ナイトメアでそこに降り立ったその時、ようやくジェレミアは、ルルーシュの遺体を包んでいた布に手をかけた。それはとてもおそろしいような、不敬な行為のような気がした。すでに死んで抜け殻となっている主君の姿を見ること。彼という魂も意志もない、無防備なその表情を自分だけが見る、というその事実。
「……陛下」
はらり、と布を取り去った下から現れたルルーシュの姿に、ジェレミアは心を打たれた。
すでに死亡してから数日がたつというのに、その遺体は腐臭もなくうつくしいままで、まるで生きているように見えた。けれどその頬は青ざめ、生きていた時はその知性を映して輝いていたうつくしい紫の瞳は閉ざされ、二度と開かれることはない。
彼の衣装は死んだ時のままで、白い布地が真っ赤に染まっていた。それはまるでルルーシュの命を啜って咲く、真っ赤な大輪の花のようにも見えた。
「陛下────」
死してなお、彼はうつくしかった。ジェレミアが己の主君と思い定めた人。すべてを投げ打ってもかわまないと思い、たしかにそれだけの価値のある、覚悟と知性とカリスマを有していた人。
けれどその人はもういない。
目の前の遺体がどれほどうつくしいままでも、ルルーシュが二度と話さず、その知性を発する術がないのなら、もはや彼は彼ではないのだ。彼の価値は、その容貌のうつくしさにあるのではなかったから。
ジェレミアは大切な壊れ物のように腕に主君の遺体を抱いて、ナイトメアから地上へと降りていった。
近くに明かりひとつなく、ひとけも皆無なその場所は静まり返り、月明かりのみに照らされている。月の光が照らしだすのは、だだっぴろい場所に無数に立つ───墓標だった。
そこはかつてシュナイゼルとルルーシュ皇帝が対したあの戦いで命を落としたものが葬られている墓地だった。ルルーシュはそこに慰霊碑をたて、あの戦いで死んだ者たちを丁重に葬った。
あの戦いにはルルーシュに脅されて無理やり───実際にはギアスを用いて命令を聞かされていたのだが───参加させられていたと思われるものも多数いたから、ルルーシュが死んだからといって、この墓地が取り壊されることはないだろう。どちらかといえば人々はこの墓地のことを忘れ、朽ちていくに任せるのではないかと思われた。
ジェレミアはルルーシュの遺体を抱いたまま暗いその場所を音もなく歩いた。月光だけに照らされるたくさんの墓標は薄気味悪かったが、ジェレミアは臆することなくその中を進んでいく。
そして無数の墓標のなかでも、特に立派なものの前で立ち止まった。まわりの墓標からは浮き上がるそれは他のものとは一線を画していて、そこに葬られたものが特別な存在なのだと教えている。
誰にとって───この墓地を建てさせた、ルルーシュにとって。
まだ新しい白い墓標には、こう刻まれていた。
SUZAKU・KURURUGI
と。
それは、もうこの世のどこにも存在しないものの名であった。
ナナリーが言ったように、その名はルルーシュが自分と共に持っていってしまった。たとえかつてその名前で呼ばれていたものがいまも生きているとしても、その人物は二度とその名で呼ばれることはない。
たとえ、その墓の中が空であったとしても。ここに葬られたものなど、なにもないとしても。
「────」
ジェレミアは腕の中のルルーシュの体をそっと地面に降ろすと、その墓へと手を伸ばした。音をたてぬように墓石を動かし、その下におさめられている棺に手をかける。打ち付けられた杭を引き抜き、棺を開けてその中を無造作にあばいた。
当然のように棺の中にはなにもなかった。遺品も、花の痕跡すらなかった。ただ空虚な、なにもない棺。それは誰かの心を示しているようにも思えた。そのすべてはもうここにはない。そして同時に、そのすべてはここにしかない。
そう、ルルーシュの遺体をおさめるには、たしかにここほどふさわしい場所はなかっただろう。ナナリーの言葉が正しいことをジェレミアは認めた。
ここにおさまる空虚の全てはルルーシュが持っていってしまったもの。ならばそこにルルーシュが眠るのは正しいのだ。本来ならこの墓に入るべきだったはずの男と彼はもはや同一の存在なのだから。ルルーシュの意志のすべてを持って、『あの男』はいま生きているのだから。
ジェレミは空虚なその棺の中にルルーシュの遺体をおさめ、そして持参した百合の花で棺を埋め尽くした。白く清らかな花は彼によく似合った。たとえその人生が、血と怨嗟にまみれたものであったとしても。
「陛下…」
やすらかにお眠りください、とそうささやきながらジェレミアは棺のふたを閉じた。青白い顔が棺の影に消えていくのを、涙にぼやける視界でじっと見つめる。
せめてその眠りがやすらかであることを祈らずにはいられなかった。
世界の明日のために命を捨てた人、誰も知ることのない隠された英雄。
ここで、この場所でルルーシュは眠るのだ。
枢木スザクという、その名と共に。
────永遠に。