はあはあ、はあはあ、という己の吐く息の音だけが闇の中に響いている。
闇を照らす明かりは遠く、自分自身の影さえ地面には映らない。月も細い弓月で、そこにいる人物を照らし出すには足りはしなかった。そんな夜の闇に紛れて、枢木スザクは彼にしてはめずらしく、息を荒げてひた走っていた。
否、それは枢木スザクではなかったかもしれない。彼が身につける服はルルーシュ皇帝の騎士、ナイトオブゼロのそれではない。しかし彼が前皇帝シャルルのラウンズであった時の、白い制服でもなかった。
彼が身につけるのは黒衣。それもやや時代がかった、細身で華美な服だった。仮面こそつけていないものの、それはつい先日悪逆皇帝ルルーシュを倒した英雄、ゼロの衣裳であったのだから。
枢木スザク、という名の男はもういない。その名を持つものは二ヶ月前、黒の騎士団とルルーシュ皇帝の東京決戦の中で戦死した。ここにいるのは名を持たない者。ゼロ、という記号を有しただけの生きて動く人形だ。
名と心をなくした男は、闇の中ひた走る。その腕の中には、なにか白いものが抱かれていた。彼を照らす光源がもう少しだけ強ければ、その白は闇の中にぼんやりと浮かび上がっただろう。真っ白な衣裳を身につけた、それは人であるようだった。人ひとりを腕に抱えて暗闇の中を走る…そんな無茶な行為ゆえに、人間離れした体力の彼も息を切らせているのだ。
異常に夜目の利くスザクでなければ、歩くこともできないような暗闇の支配する場所。失われた帝都ペンドラゴンから少し離れた、かつては整備された森の中にあった庭園。
そこはブリタニア皇家の墓地だった。
代々の皇帝と皇族が眠る場所。高貴なる死者の御座所。そして今は…過ぎ去った憎しみがうずもれた場所だ。
この先この墓地がどうなるのかはわからない。しかしナナリー・ヴィ・ブリタニアの存在がある以上、また世界の指導者の一人にゼロがいる以上、死者の存在まで汚すようなことにはならないだろう。
おそらくこの場所はただひっそりと忘れ去られていく。明日に向かって動き出した世界は過去の系譜を忘れ、死者を祀るものも憎むものもないまま、人々の記憶から消え去っていくのだろう。次第に朽ちていくだろうこの場の光景を思いながら、スザクはようやく足を止め、ひっそりとした一つの墓の前で立ち止まった。
その墓はまだ新しく、墓標にはなにも記されていない。なにかの時のために予備に建造されたものか…それにしては、石でできた十字架は真っ白で、ほとんど風雨にもさらされていないように見えた。
その墓はジェレミアによって用意されていたのだ。そこに眠るにふさわしい人物のために。その血を否定しながらも、たしかに高貴なる系譜に属し、その歴史に幕を引いた男のために。
スザクはその墓の前にしばし佇むと、腕に抱いていた白い『なにか』を、そっと地面に降ろした。
地面に横たえられた白いモノ…それは、ヒト、だった。白い衣裳をまとった人間。しかしその人物は瞳を閉じ、身じろぎさえしない。閉じられたまぶたはふるえることもなく、呼吸の音も聞こえはしなかった。
この暗闇でそこまで見てとることはできなくとも、地面に降ろされたその人物がもはや生きてはいないことは明白だった。なぜなら、その白い衣裳の胸元は血で真っ赤に染まっていたのだから。
胸をなにかに貫かれ、息絶えた人物。尋常ではない死に方をしたのだろうその人物の顔にはしかし、苦悶の表情は見られなかった。まだ少年とも呼べるような年若い顔は青白くうつくしく、そして穏やかだった。すべてをやり遂げて死に至った者の満足の表情が、その頬に浮かんでいる。
スザクは彼を降ろした地面にひざまずいてその顔を見つめると、取りすがるようにして死したその体を抱きしめた。
「痛かったね、つらかったね…ごめんね。もう大丈夫だから」
月明かりさえ照らさぬ闇の中、スザクはやさしい声でささやく。その頬を涙がつぎつぎとこぼれたけれど、スザクはそれにも気付かぬように白い死体を抱きしめて強くかきいだく。
「もう君は苦しまなくていいんだ。君は嘘をつかなくて言い。世界を欺いて、ナナリーまで騙して、罵られることはないんだ」
スザクは…いまはゼロと呼ばれるようになった男は、己が剣で刺し殺した人物の亡きがらを抱きしめて泣き続ける。
そう…スザクが抱きしめているのは、彼が殺した人間だった。ゼロが討った魔王───悪逆皇帝ルルーシュ。世界を支配し、壊し、独裁を敷こうとした悪魔。世界そのものの敵。だれもがその死を願った。
けれど彼を殺した当人であるスザクは、その死に涙を流す。闇に紛れて深く深く慟哭する。その嘆きを聞くものは誰もいない。誰も。月すらも────
「ルルーシュ…ルルーシュ……やっと…!」
己の流した涙が青ざめたルルーシュの頬に落ちるのにも構わずに、スザクはその禁じられた名を呼びながら冷たいくちびるにキスをする。ルルーシュが生きている間、彼がけしてふれることのかなわなかったくちびる。それをスザクは一方的に奪った。もはや抵抗することもかなわないルルーシュから。


『─────俺はおまえのものにはならないよ、スザク』


冷たいくちびるを味わうスザクの脳裏に、ルルーシュの声が響く。それはゼロレクイエムを決めた後のことだ。ルルーシュが皇帝として即位し、スザクはその騎士となった。数人だけしか知らない真実をかかえて、謀略の中、二人の関係は変化していく。
ゼロレクイエムという目的を目指して真実の姿をさらしたルルーシュは研ぎ澄まされ、どこまでも澄んで、スザクの目におだやかにうつくしく見えた。奇跡のような知略と圧倒的な指導力、世界を壊すだけの力を持ったカリスマ。世界の未来に全てをささげたルルーシュは、その本質をスザクの目にさらす。
その存在を自分が消し去らねばならないのだ、と日々思い続けたスザクは追いつめられていった。ルルーシュの罪は贖われねばならない。そう思ったのは事実なのに、許せないと思ったはずなのに、ひたむきに世界の明日を求めたルルーシュの姿を見つめ続けたスザクには、それが正しいことなのかわからなくなった。
どうしてこの希有な存在を、自分が消し去らねばならないのだろう。ルルーシュの罪は罪だ。けれど彼にはその罪を贖うだけの能力がある。彼は世界を壊せるかも知れない、けれど同時に、彼は世界を作れる。彼は罪を犯したかもしれない。しかし彼はそれをずっと痛みとして感じ取り、悔いている。どうして彼が消えなければならないのだろう。同じく罪を犯した者はたくさんいる。どうして死を持ってその罪を贖うことが正しいと言えるだろう。
なによりスザク自身が、ルルーシュを失いたくないと思い始めていた。彼の下で彼の指揮に従う。なんでもできるようなその一体感。それを味わい続けたかった。ルルーシュのそばにいたかった。彼を手放したくなどなかった。
その思いのままに、スザクはルルーシュに手を伸ばした。それはすがりつくようなものだったのかもしれない。己の痛みを、思いをルルーシュに背負わせようとする行為だったのかも知れない。けれどスザクは知っている。ルルーシュ本人はそのスザクの弱さを許していた。受け止めてくれようとしていた。そしてルルーシュもまたスザクを欲してくれていたのだ。溺れるように、乞うように、ただ一対の相手として。
スザクはそれをはっきりと感じ取っていた。


──────けれど。


「俺はおまえのものにはなれない」
彼を抱きしめようとしたスザクの腕を、ルルーシュは拒んだ。乞うように彼を求めたスザクのくちびるを、彼は受け入れはしなかった。
拒んだのはルルーシュ自身ではない。彼の意志ではない。その時もはや『ルルーシュ』という個人は彼の中から消え去っていた。己の欲望のままに生きることを、彼は彼自身に許さなかったから。
「俺の命は、世界に捧げるから」
うっすらとおだやかにほほえみながら、ルルーシュはそれでもはっきりとスザクの手を拒んだ。最後のひととき、溺れるように抱きあうことさえ自分とスザクに許さなかった。自分の存在はすでに世界のものだから、自身をスザクに与えたいという欲求すらかなえてはならないのだと。自分とスザクのこの未練は、もはやあってはならないものなのだからと。
「おまえは俺を忘れろ」
すがるように彼を抱きしめようとするスザクの胸を押し返して、残酷にルルーシュはほほえんだ。その笑みがうつくしければうつくしいほど、スザクは苦しかった。激情にまかせて彼を抱くこともできたかもしれない。そうすることで、ひととき彼を自分のもとに引き止めることはできたかもしれない。
けれどルルーシュはスザクのものにはならなかった。そのすべては世界に捧げられていて、スザクに下げ渡される余地などなかった。スザクは世界という存在に負けたのだ。彼の嘆きは、すがるような願いは、ルルーシュに受け入れられなかった。

彼は死んでしまった。

スザクの手によって命を奪われ、世界に捧げられた。

いまスザクの腕の中に残るのはその抜け殻だけだ。けれどそれはルルーシュだ。スザクにとって、腕の中の冷たい肉体はルルーシュそのものだった。
命を世界に捧げたいま、ルルーシュはスザクの腕を拒まない。スザクはそのくちびるにふれることができる。生きている間一度もかなわなかったくちづけをかわすことができる。
スザクは色を失ったルルーシュのくちびるに何度もキスを落としながら、真っ赤にそまったその白い衣裳をまさぐる。胸元を開き、その冷たい肌にふれる。ずっとスザクを拒み、その視線から隠されていた肌。スザクの指を受け入れることのなかったそれをあらわにして、思う様まさぐった。暗闇の中、すべての衣裳をはぎとり、その裸体をさらしていく。
ルルーシュはスザクをもはや拒まない。拒むことはできない。スザクの行為は陵辱に等しい。それは暴力ですらない、あまりにも一方的なおぞましい行為だった。


(俺はおまえのものにならない)
(おまえは俺にはふれるな)
(そしていつか───俺のことなど忘れてしまえ)


ふれなければ忘れられると言いたかったのだろうか?その一線を越えなければ、この執着などいつか消えると?彼の存在の輝きが、スザクの中からなくなる日が来るとでも?

(俺はおまえのものにはならない)

そうやってルルーシュはスザクの腕からすり抜けていった。その命を世界にささげ、けしてスザクのものにはならなかった。その心がどこにあったとしても。
「ルルーシュ…ルルーシュ、ルルーシュ……!」
スザクはその名を呼び続けながら、ルルーシュにふれる。その肌を全身を味わい、陵辱する。闇に包まれた墓地で、彼を手に入れる。
その場を支配するのは闇だっただろうか。熱だっただろうか。狂気だっただろうか。死体を食らう怪物のように、スザクは死したルルーシュの体をむさぼる。冷たい肌を指でたどり、くちびるを這わせ、その体を開いた。ふれてもふれても冷たいままのルルーシュの体とは反対に、スザクの熱はあがっていく。
果てしなく興奮した。ルルーシュにふれること。その体を手に入れること。彼を自分のものにすることに。
弛緩した体にのし掛かり、体を重ねた。熱を持たない体を熱をもって犯す。息を荒げてその体を揺さぶり、激しく突き上げた。奥深くまでルルーシュを犯しながら、くちびるを重ねる。忠誠を捧げるように。この先のすべてを約束するように。
「君は、もう僕のものだ」
闇の中、ルルーシュの体を激しく犯してスザクはささやいた。
忘れなどするものか、とスザクは思う。この熱を失った体を、二度と脈打つことのない肌を、わずかにただよう腐臭さえ忘れはしない。



ルルーシュは今やっとスザクのものになった。




死ぬことで…命を世界に捧げることでようやく────























オフの本に再録する予定です。
ジェレミアの「墓標」は最初このスザルルでした…やっぱり書きたくなったので書いたら、墓標で書いた理由部分がなくなった!墓の場所も変わっています。