愛人契約9 バーナビーは結局、朝まで目を覚まさなかった。 相当酒が入っていたとはいえ、夕方前からほとんどずっと眠り続けていたのは、おそらく疲れがたまっていたのだろう。虎徹とのごたごたも含めて気が張っていたところに、それが解決してほっとしてしまったのかもしれない。 虎徹は何度か目を覚まして、最後にはもう眠れなくなってしまったのだけれど、バーナビーが抱きしめてくる腕から抜け出す気になれなくて、ずっと添い寝をしていた。 仕事はいいのかな、と少しだけ思ったが、電話も鳴らないからいいのだろうとそう判断して放置しておいた。虎徹は知らなかったが、実はバーナビーは携帯の電源を切ってしまっていた。内線電話の方も、バーナビーの無事が確認できていたから、彼の判断で連絡を絶っているのだとしてコンシェルジュは秘書にどれだけせっつかれても連絡を入れなかったらしい。 そんなことも知らずに、二人は朝日が窓からこぼれ出す中、のんきにまどろんでいた。虎徹は目覚めてからずっと、ふわふわしたしあわせな気持ちでバーナビーの寝顔を見つめていた。 けれど、そんなおだやかな朝をやぶる闖入者が突如現れる。バーナビーにくっついたままうとうととしていた虎徹の耳に、バタン、と玄関の扉が開く音が聞こえた。一瞬清掃の人でも来たのかと思ったが、それにしては時間が早すぎるし、チャイムの音も聞こえなかった。なんだ?と思う間もなく気配はバタバタと走ってきて寝室の自動扉を開き、その上ベッドに近づいて二人がかぶっていたケットを勢いよくはぎ取った。 「good morning!」 「えっ…はっ?」 ほがらかな女の声に、虎徹はあっけに取られて闖入者を見上げた。ふわりと宙を舞うケットの向こうから現れたのは、すらりと背の高い美女だ。繊細な金髪をふんわりと結い上げ、シンプルなシャツとジーンズを着た女性の顔を虎徹は知っていた。 「お邪魔だったかしら?」 キャサリン・ガードナー……バーナビーの妻だった女性は、いたずらっぽく笑ってそう言った。お邪魔もなにも、チャイムも前触れもなく現れて、ケットを引きはがされれば驚くしかない。キャサリンはケットの中から夫と抱きあう知らない男が出てきても、少しも驚いた様子をみせなかった。それどころか虎徹の顔をしげしげと眺めて、感心したように言ったのだった。 「あら、いい男。あなた私のパパに似てるわ。あと二十歳ほど老けて欲しいけど、なかなかいい線いってるわよ。口ひげもはやしなさいな。そのほうがダンディよ」 「キャサリン…連絡もなしに急に踏み込んでくるのはやめてください」 さすがにキャサリンの闖入で目が覚めたのか、バーナビーが目を擦りながらのっそりと起き上がる。寝起きの悪い彼はたたき起こされて果てしなく不機嫌だったけれど、キャサリンはそんなことは知ったことではない、と言うように腰に手を当てて叫んだ。 「だってあなた電話にも出ないじゃないの!記者会見だって私ひとりでやったのに!あなたが出てこないおかげで私が質問攻めにあうのよ。ようやく結婚を承知してくれたマイ・スイートハニーといちゃいちゃしたいのに!」 「思う存分いちゃいちゃしたらいいじゃないですか…電話切ってセキュリティ入れればしたい放題ですよ」 「そういうことするとハニーが心配するんだもの!仕事はいいの?って。事務所には一ヶ月休むからって宣言してあるのに!」 彼女の言い方からしてその宣言に事務所が同意しているかどうかはあやしかったが、口を挟むところでもなかったので、虎徹は目を白黒させながら二人のやりとりを見守っていた。バーナビーは彼女の傍若無人さには慣れているというように、額をおさえつつため息をついて提案する。 「……じゃあ、電話の通じない南の島にハネムーンにでもいったらどうですか」 「あら、それいいわね」 やや投げやりに提示されたバーナビーの提案に、キャサリンはあっさりと食いついた。彼が出てこないことで被った迷惑など忘れてしまったようにうきうきとした表情になると、さっさと踵を返す。 「無人島を手配するわ。一ヶ月連絡取れないからよろしく」 そう言ってひらりと手を振ると、彼女は来た時と同じ唐突さで出ていった。一ヶ月も姿を消すと言っているのに即断即決で躊躇がない。今はもう他人とはいえ仕事や財産のことなどでも話すこともあるだろうに、そうしたことをバーナビーと話す気配もなく嵐のように去っていってしまった。 虎徹はバーナビーと二人でベッドに半身を起こしただけの状態で、呆然と彼女を見送った。玄関の扉をバタンと激しく閉じる音がして(玄関だけは自動ドアではないのだ)、ようやく我に返る。 「あれ…おまえの奥さん、だよな…」 あっけに取られたまま、隣のバーナビーを見て虎徹は問い掛けた。バーナビーはまだ眠りから浮上し切れてない顔で、目と目の間を指で軽く揉みながらふう、と深い息をついた。 「離婚届は受理されたはずだから元、ですが」 「想像以上に豪快なひとだなあ。綺麗なのになんか男みてえで」 「やめてください…あのひとレズビアンでもタチらしいんですけど、『男は駄目だけどあんたなら抱いてあげてもいいわよ』とか言って…犯されるかと思いました。あなたも不用意に近づかないでくださいね。男は駄目なはずですけどあなたはあぶない」 「ぶはっ…すげえな。男嫌いってわけじゃねーんだ?」 真剣な顔で注意してくるバーナビーがおかしくて吹き出した。いつも完璧な笑みで女性を優美にエスコートしている男が、あんなに綺麗で華奢な女性に振り回されているのかと思うと、なんだかほほえましい。 なんでもセオリーで動くきらいのあるバーナビーにとって、ああいうタイプの女性は予想不可能だろう。 「あの人すごいファザコンなんですよ。だから父親以下の男は目に入らないとか…」 「えー、なんか俺、父親に似てるっていわれなかった?」 「写真で見ましたけどぜんっぜん似てません。……だから危ないって言ってるんじゃないですか」 真剣に言うバーナビーに思わず声を立てて笑ってしまった。 男女の仲ではなかったとしても、いい人と結婚したんだなと思った。契約結婚にしろなんにせよ、彼女はバーナビーにいい影響を与えたのだと思う。それは恋愛とは違うところでバーナビーが五年の間につちかった人間関係だ。 ちょっとだけ悔しいような気持ちになったけれど、同時に誇らしくもあった。虎徹はいろいろと間違えて、五年もの時間を無駄にしてしまった。だけどお互いにその時間はまったく無駄ではなかったのだと思う。 虎徹はバーナビーと離れることで、やっぱりどうしても彼が大事なのだと思い知った。バーナビーは虎徹と離れて他の人間やいろんなものを見て、その上でなお彼を選んだ。こうして互いの想いを確認したから言えることなのかも知れないけれど、離れていた時間は無駄ではなかったと思う。 なにもかもいまからでもまだ、遅くはないのだから──── 「……身支度して出かけましょうか」 「え、なに?記者会見すんの?」 バーナビーがのっそりとベッドから降りながら言うのに、きょとんとして虎徹は問い返す。朝なのだから仕事のあるバーナビーがでかけるのは当たり前だが、一緒にでかけるかのような言い方に思わずわけのわからないことを言ってしまった。 キャサリンが姿を消してしまうからには、昨日の会見のフォローがいるんじゃないかと直前まで考えていたせいだったが、バーナビーはそれに少し嬉しそうに笑った。 「ああ…そうですね。あの人と同じように告白するのもいいですけど」 告白ってなんだろう、と思いつつ首をかしげると、立ち上がるように手を差し出されて言葉を続けられた。 「楓さんのところに行きましょう。手術の日取りが決まりそうなんです。その準備や検査がありますから…一緒に説明を聞きましょう?」 「あ、うん…あ、そっか。ありがとう」 そういえばアポロンメディアが楓の治療費を出してくれる、という話になったのだった。事業ですから、と言い張るバーナビーに虎徹はもう一度、ありがとうと繰り返した。そんな彼を見てバーナビーは、ためらいがちに声をかけてくる。 「僕が言うことではありませんが、楓さんは大丈夫だと思います。医師も病院の体制もしっかりしていますし、なにより……あなたの娘さんだから」 そう言ってくれるバーナビーの手を取って虎徹は立ち上がった。力強い手は揺るぎなくて、もう迷っているたよりない子供のものではない。この手につかまっていればなにもかも大丈夫だ、とそう思えるような手だった。 楓もきっと大丈夫。バーナビーが気にかけて、力になってくれるから。この先のすべてはきっと乗り越えていける。そう、この手がある限りは───── ──────────さあ、しあわせになる努力をしよう。 虎徹がシュテルンビルトに戻ってきた頃、季節は秋から冬に移り変わろうとしている時だった。街路樹の葉が落ち、日に日に寒くなっていく……五年前この街を出ていった時と同じ季節。 けれどそれから季節はさらに巡り、冬が来て何度か雪が降り、そして次第に寒さが緩んでいった。いまはそう…春だ。新緑が芽吹き、少しずつ命が動き出そうとしている、まだ早い春。 その季節に楓は、万全の準備をして手術にのぞんだ。 執刀医はもちろん最初から世話になっている教授で、機材もスタッフも最高のものが用意された。バーナビーが手を回したのかもしれなかったが、実際のところその病気に業界が注目しているというのは本当のことだったらしい。いやらしい話ではあるが、絶対に失敗できない手術として病院側もかなり気を使っていたようだった。 大人の事情はともかく、最高の環境を与えられたことはよかった。楓は戦場に向かう戦士のような顔で手術室に向かい、そして───生還した。 薬の副作用と闘い、襲い来る頭痛に耐えていた日々が終わる。以前とまったく同じというわけにはいかなかったけれど、それでも手術から一週間後の検査で、オールグリーン、およそ普通の人間とさしてかわらない生活ができると保証された。ただNEXT能力はこの先使うことを禁じられ、それをおさえるための薬を一生飲み続けなければならない。 ともあれ楓は生きている。生きて、いまも笑っている。そのことが嬉しくて、虎徹は彼女の手術が成功したと聞いた時、なにもかもに感謝した。大切なものがあたりまえにそばにあること。それがどれだけ幸福なことなのか、虎徹は思い知ったのだから。 そして今、その虎徹の大切なひとり娘は、病室ではしゃいで彼に話しかけている。安寿は楓が落ち着くと、いろいろ放り出してきたこともあるから、といったん田舎に帰った。自宅療養に切り替わる頃にはまた来てくれることになっている。 「ねっ、ねっ、お父さん、髪ちゃんとなってる?手術跡のところ見えてない?髪留めこれで大丈夫かなあ?」 「だーいじょうぶだいじょうぶ、楓はいつでもかわいいって。ああ、あんま興奮すんなよ。まだ傷ふさがってないだろ」 「だって、すこしでもちゃんとしたいんだもん。あんなハンサムが来るんだよ!前は来るって知らなかったから髪の毛ぼさぼさだったし…」 目をきらきらさせて言う楓に、虎徹は苦笑してもう一度かわいいよ、と言ってやった。親の欲目も多分にあるのだろうが、手術を乗り越えた楓は生命力に満ちて輝くようにうつくしかった。そんな彼女が精いっぱいかわいくしようとしているのは、今日訪れるはずの人物のためだ。 そろそろ来るはずの時間だけどな…と思って時計を確認すると、ちょうどその時、コンコンと個室の扉がノックされた。 「どうぞ!」 「こんにちは」 楓が飛び上がって返事を返すと、開かれた扉の向こうからスーツ姿のバーナビーが顔を出した。ビジネスマンらしいきちんとした格好だったが、楓に会うことを意識したのか少しばかりカジュアルで若々しい。その上、楓の見舞いにと持ってきたのだろう。色とりどりの綺麗な花束を手にしていて、彼の繊細な容貌と相まってうつくしかった。 貴公子然としたその姿に楓はパッと華やいだ笑顔になり、興奮のやり場を父親に定めて、ベッドに座ったままバンバンと虎徹の背中を叩いてくる。 「バーナビーさん、来てくださってありがとうございますっ!ほら、おとーさん、挨拶してよっ」 「あー…バニー、ありがとな」 少女の力でバンバン叩かれるくらい痛くもなんともないが、なんとなくしょぼくれた気分になって力の抜けた挨拶を投げる。そらぞらしいそれにバーナビーは苦笑したが、実のところいま二人はほとんど一緒に暮らしているような状態になっていて、いまさら挨拶もなにもあったものではない。 それでも楓の前だからそれなりに取り繕い、家ではあまり話さないことを口にしてみる。 「仕事忙しいんじゃねーの?また秘書のひと泡吹いてない?」 「それなりに忙しいですけど、前ほどじゃありませんよ。他に回せるものは回してますから…周りもいきなり連絡つかなくなるくらいなら、もう少し仕事を減らすようにしてくれてますし」 「そんなに忙しいのに、わざわざありがとうございます!」 バーナビーが秘書たちと連絡を絶ったあの日の後始末のことを思い出して虎徹は顔をしかめたが、楓はそんな父親には気付かずに身を乗り出してバーナビーに礼を言った。そんな彼女にバーナビーは華やかな笑顔を浮かべて、手にしていた花束を差し出した。 「手術成功おめでとうございます。これは、とりあえず気持ちだけ先に」 バーナビーの笑顔はいつも完璧だが、今日はそれだけではないものがこもっている笑みだった。こいつ人の娘をたらそうとしてやがるな、と思ったけれど、楓が喜んでいるのだからいいか、と自分を納得させる。 「お祝いはまた改めて贈りますよ」 「いいですいいです!たくさんお世話になったのに、これ以上なんて受け取れないです!このお花で充分…」 「世話したのは会社ですから…お祝いは僕個人から」 個人的に、などと意味深なことを言われて、楓は嬉しそうに笑った。父親の知人だからということはわかっていても、憧れのヒーローに気にかけてもらうことは純粋に嬉しいらしい。楓がうっとりした目でバーナビーを見るのにもやもやして、虎徹はその空気を遮るようにやや大きな声で告げる。 「機能的にはもう大丈夫なんだが、いじった場所が場所だから、安静にしてねーといけねーんだよな。そっと動けば大丈夫だけど突発的な事態はまずいから、学校やあんまり外に出るのは当分禁止だって」 「あっ、そうだ!先生はどのくらいかかるって言ってた?」 楓は花束を抱えたまま、虎徹の言葉に反応してパッとこちらを振り返った。さっきまでバーナビーを見てうっとりしていたのに、その切り替えの早さに苦笑する。夢見がちな少女の部分と、地に足がついた現実的な部分が共存しているのは、母親によく似ている。 「一ヶ月入院して、退院後三ヶ月は自宅療養してください、ってさ。んで最初は週二回通院。三ヶ月たって様子見て、それからその先のことを決めましょう、って言われたぞ」 虎徹が医師に言われたことを伝えると、楓は手にした花束に顔をうずめるようにして、難しい顔でうなった。 「うーん、最初から数えると半年以上かあ…そうしたら学校もう一年いかなきゃいけなくなるのかなあ。高校いくの遅れちゃう」 「シュテルンビルトの高校でしたら、高校入学資格試験さえ通ればいまからでも入れますよ」 学校の遅れを気にする楓に、バーナビーがにこやかにそんなことを言う。虎徹はえっ、と思って彼を振り返ったが、バーナビーは楓の方を見たままこちらに視線を寄越しもせず、つらつらと言葉を続ける。 「それに、申し訳ないんですが、楓さんには時々シュテルンビルトで講演に出ていただかなくてはならないと思います。生々しい話でなんですが、この事業のことをアピールしないといけないので」 「はい、もちろん協力します!お世話になった恩返しもしたいし、それに同じ病気になった子に勇気をあげたい!」 「でしたらいっそ、シュテルンビルトに住んではいかがです?以前はラシトロンに住まれていたんですよね?こちらに出てくるのは大変ですし」 以前住んでいた街の名前など一度も出したことはないのに、バーナビーはさらりとそう言う。楓はと言うと一瞬パッと顔を輝かせ、それから困ったようにうつむいた。ちらちらと虎徹を見つつ、それもいいですよね、などと適当にごまかした。 楓は向こうの街で五年暮らして友達もいるはずだが、それでもシュテルンビルトのほうがいいらしい。けれど虎徹が、事情があってシュテルンビルトを離れたことを知っているから、それをねだる気にはなれないのだ。実のところその『事情』は消失してしまっているから、楓の高校進学を期にこちらにもどってきても構わないのだけれど。 「おい…前住んでたとこと違ってこっちで仕事探すの大変なんだぞ」 しばらく楓と三人でほがらかに話をした後、そろそろ…と切り出したバーナビーについて病室を出た虎徹は、苦り切った顔をしてそう文句をつけた。虎徹はヒーローだったことを公表していない。だからその間の経歴はアポロンメディアに勤めていたことになっている。 遠い街ならそこで雑用係をやっていた、と言えばそれですむのだが、アポロンメディアのお膝元のこの街ではそうはいかない。部署や役職まで根掘り葉掘り聞かれるし、おそらくアポロンメディアの該当部署に問い合わせの電話がかかるだろう。 まあじゃあそこは責任を取ってバーナビーに手を回してもらうか…と、前向きになって考えていると、バーナビーは足を止めて虎徹を振り返った。駐車場に向かっていたから、そこはすでに病院の建物の外だった。よく晴れた空の下、まだ冷たい風がバーナビーの金の髪を揺らす。 「…ヒーロー関係のコメンテーター、とかやりたくないですか?」 「は?……おまえ前、向いてないって言っただろ」 「あの時はまあ…ああ言いましたけど、向いてると思いますよ。あなたみたいな熱いコメント吐く人、ご年配の方々が好きなんですよね…」 褒めたのかどうか微妙なことを言って、バーナビーが再び歩き出す。虎徹は彼と一緒に足を止めてしまっていたから、慌てて後を追えば後ろをついていく形になった。 「あとキャサリンが言ってましたけど、モデルやる気あるなら私に声をかけなさい、だそうですよ。あの人そろそろモデル辞めてプロデュース関係にいきたいそうで。あなたくらいの年齢で、マッチョ過ぎないきちんと筋肉のついてスタイルのいい男は貴重、と言っていました」 歩みを止めることなく言ってから、本当言うとそっちはあまりすすめませんけど、とつぶやく。どんな顔でそれを言っているのか、後ろから追いかける虎徹には見えない。隣に並ぼうとしたら足を早められてしまう。表情を見られないようにしているのだと思うと、ちょっとむっとした。 顔を見られたくないなんていまさら卑怯だ。たたみかけるように虎徹のこの先のことを一方的に話して、それを通そうなんて甘すぎる。こっちを見てちゃんと話せと思う。……きっとバーナビーを怖がらせてしまっているのは、虎徹の過去の所業のせいなのだろうけれど。 「家はよかったら僕が郊外に買った一軒家がありますよ。キャサリンと結婚する時一応買ったんですけど、結局二人ともほとんど暮らしてないんです」 「それはわかったからちょっと待てよ!」 あっさりと自分の家を提供しようとするバーナビーの言葉をひとまず置いておいて、虎徹は彼の腕を引っ張ってその歩みを無理やり止めた。振り返ったバーナビーはなんともいえない、惑うような顔をしていた。端正な顔がいつものハンサムになりそこなって、どこか泣く前のこどものような表情に見える。 「……おまえ外堀埋めてるけどさ」 そんな顏すんなよ、と頭を撫でてなぐさめてやりたくなるのをぐっとこらえて、虎徹は少しだけ自分より高い所にある緑の瞳を見つめて問い掛けた。 「結局俺をどうしたいの?」 「結婚してください」 問い掛けに対する返答は、バーナビーのくちびるからするりと落ちた。それに自分でも驚いたようで、彼は小さく目を見開きながら、それでも虎徹を見つめてもう一度繰り返す。 「結婚してください」 二回目のそれは熱っぽく、心の底からの言葉だった。見つめてくる緑の瞳が宝石のように綺麗で、尋ねたのは自分だというのに、そしてその返答も予想していたのに、言葉が出ないほどドキドキした。 「……でもいやならいいです」 そっと手を握られて、やわらかな声でそう言われる。さっき言ったばかりの自分の言葉を否定するそれは、けれど悄然としたものではない。断られてもかまわない、と本気で思っている声だった。そしてそれは別に、あきらめているわけではなくて。 「結婚なんて形だけのものです。だけど僕はできれば、あなたに何かあった時にまっさきに連絡を受けられる立場になりたい。そしてあなたが困ってる時に助けになれる存在になりたい」 「……バニー」 まっすぐに自分を見つめてバーナビーが言う言葉に、じんわりと指が熱くなる。『契約結婚』をしていたバーナビーにとって、結婚は書類上の手続きでしかないのだろう。それでもそれを望む理由。未来と、相手の全部を思っての言葉が、あまりに格好よくてくやしい。 いつの間にこんなに大人になったのだろう。いまだってこんなにかわいいかわいバニーちゃんではあるのに、時々大人の男の顔をする。五年前には絶対になかった一面だった。虎徹と離れていた間に…あるいは虎徹との別離が彼を大人にした。 「あなた借りたい金額を言い直したじゃないですか」 虎徹がちょっと感動した顔で見上げるのに、照れたように顔を赤らめながらバーナビーは言葉を重ねる。一瞬意味がわからなかったが、バーナビーに金を借りに行った時のことかと思い出した。そういえば、実家に借りた分のことを考えて50万シュテルンドルと言いかけたのを、思い直して言い直した気がする。そんな細かいことに気付いていたのかと驚いた。 「きっと他の人から借りる分なんだろうなと思って…田舎の家やご家族の関係なんだと思ってすごく悔しかったんです」 「え?そうだったの?」 あの時のバーナビーがいやそうに顔をしかめたのを思い出して、虎徹は思わず声をあげた。あれは金を借りたいという虎徹の言葉そのものを不快に感じたのだと思っていたけれど。バーナビーはあの時、虎徹の家族に嫉妬していたのだ。自分より頼りにされる相手。虎徹が自分と等しく、犠牲にしても許されるだろうとどこかで甘えている相手に。 そう思うと、なんともいえないくすぐったい気持ちになった。 「───俺と家族になる?」 犬でも拾うかのように、虎徹はさらりとそう言った。そして自分の言葉に、バーナビーの表情がパッと明るくなるのを見て目を細める。そんな嬉しそうでしあわせそうな顔をしないで欲しい。こちらまでしあわせになってしまうから。しあわせでしあわせで胸がいっぱいになってしまうから。 「喧嘩すんぞ?」 虎徹は笑って、きゅっと手を握り返しながらそう言ってやった。それに、ちょっとツンとした顔になってバーナビーも返してくる。 「しますよ、それは。オムレツにケチャップをかけるかマヨネーズをかけるかでまず喧嘩します」 「マヨネーズだろ!」 「普通ケチャップでしょう…だからそれは両方かければいいんです」 力強く断言するその言葉に虎徹は笑った。一緒になるということは、そうやって少しづつ譲歩して寄り添うことだ。どっちがどっち、ということもなく、共にいる努力をすること。我慢するけど我慢しない。そして、あきらめないこと。 バーナビーのためだけを考えて自分の欲を殺した虎徹は、一度失敗した。だから今度は間違えない。互いが望む限り、一緒にいる努力をしようと思う。きっとそれは面倒だけれど、楽しいことだ。そしてきっと、とてもしあわせなことだろうから。 「俺、けっこー嫉妬深いよ?」 「僕の嫉妬深さ舐めないでください。それに…あなたに束縛されるなら本望です」 「面倒くさいし、重いし、そもそもおっさんだし、たぶんおまえより先に死ぬし、それから……」 言いながらだんだんうつむいていった顔を、バーナビーの手が引き戻して上を向かせる。彼は虎徹のくちびるにちゅっ、と小さくキスをして、ふわりとほほえんで問い掛けてきた。 「虎徹さん、返事は?」 やわらかな早春の光の中で、金髪にいろどられたその顔はとても綺麗で、虎徹は思わず見とれてしまう。にぎられた手からバーナビーの体温が伝わってくる。バーナビーにいまこんな表情をさせているのは、まぎれもなく自分だ。こんなにしあわせそうな、こぼれるような笑みを浮かべさせているのは。 「────返事は?」 「うん…」 今度はまぶたにキスされて、虎徹はバーナビーにつられるようにふわりと笑った。きっと自分もいまとろけるようにしあわせそうな顔をしているのだと思う。バーナビーといて、彼とふれあっていて、彼をしあわせにできて。 「俺、おまえのものになるよ」 そうささやいてから、パッと顔をあげる。 これは契約じゃない。結婚という書類上の手続きはするだろうけれど、そうした事務的なこととはまた違う意味があるのだ。 そう、これは『約束』だった。一番そばにいるという約束。ずっと手をつないでいるという約束。二人でしあわせになる努力をするという、その───約束。 「だから、バニー…おまえを俺にください」 厳かにそう言って、虎徹は少し背伸びをして自分からバーナビーにキスをした。永遠ではないかもしれない、けれど永遠を得る為の努力する、その誓いのキスをしたのだ。 〈完〉 連載終了しました!長々と書いてきましたが三ヶ月ありがとうございました。 とにかく「愛人で!エロ!裸エプロン!尿道バイブ♪♪♪」とうっきうきで書いていたので、途中真面目な感想をいただいておののいたりしていました。私はもう、いつか書いてやろうと思っていた尿道バイブ書けたので満足です。流行れ愛人!流行れ尿道バイブ! 「王道」「お約束」を基本に書いたので、予想通りのオチだったと思いますが拍子抜けですみません!おやくそくだいすき。 一応バニーの内心は最後まで読んでから読み返してみるとわかるかな?という感じに書いたので、一度最初から読み直していただけると嬉しいです。まあ前後間違ってるのも出てきてますが… 後日談などを加えて本にして発行いたします。後日談はただいちゃいちゃしてるだけの蛇足ですが、紙で読みたい方よろしければ! 伏線を忘れたり前後でつじつまあわなくなったり、連載が向いているのか微妙ですが、一度にこれだけ長い話をかけたのがはじめてなので、また連載やってみようかなと思います。 連載の途中で、拍手など本当にありがとうございました。嬉しくて小躍りしてました。 手が遅いのでなかなか更新できませんが、これからもよろしくお願いいたします! back |