大事なものは瞼の裏
───雨の音が聞こえる。
さあああああ、と細かく降る霧のような雨の音。
そこはバーナビーの部屋で、地上から離れた位置にあるのだからそう雨音は聞こえないはずだったが、彼の耳にはずっとその音が聞こえていた。窓の外に目をやっても、雨粒は見えない。それはよどんだ空の色に紛れてしまっている。
ひょっとしたら本当は雨など降っていないのかも知れない。そういえばいつも、目の前のこの男にふれている時には雨の音が聞こえている気がする。実際に雨が降っているかどうかを気にしたことはなかったけれど、降っていない雨の音を聞いているのかも知れない、とそう思った。
雨音、水音。あたたかい体にふれながら、どこかで水にふれている感覚がしている。さらさらと降る雨の音に包まれて、二人してずぶぬれになっていく。だけどけしてそれは冷えきっていくわけではなくて。
どうしてそんな風に感じるのか、理由はわからないけれど───
「っ……バニーちゃん、終ったんなら抜けよ」
物思いに捕らわれて数秒視線をさまよわせていると、それを咎めるようにバーナビーの体の下にいた男が身じろぎする。バーナビーはふう、と息をついてその男にのしかかり、ギシリ、とベッドを軋ませてわずかに腰を揺らした。
「これが終ったように思えるんですか、あなたは」
「いっ……!」
バーナビーのそのしぐさに、彼の下にいた男……バーナビーとコンビを組んでいるパートナーである鏑木・T・虎徹は、びくりと体をふるわせて声を上げる。綺麗に筋肉のついた胸元が反らされて、バーナビーは思わずそのラインを指先でなぞった。
「いつまでも慣れないんですね」
「お…まえのがでかすぎるんだよ。兎のくせに…!」
バーナビーの指に体をふるわせながら、虎徹は憎まれ口ともつかない文句を言う。そんなことを言えばひどいめに合うだけなのに、懲りない人だとある意味感心して、バーナビーはズッと腰を進めた。
「僕はバニーじゃなくてバーナビーです。まだまだこれからですよ、おじさん」
「っ……!」
深く入り込んだバーナビーを受け止めそこなって虎徹は一瞬声をあげたけれど、それを許せないかのように彼の背中にしがみついて声を殺した。自分の背中に虎徹の爪の感触を感じて、バーナビーは衝動ともいらだちともつかないものをいだく。
目の前の男が、いつだってなにかをこらえるかのようにバーナビーを受け入れているのが腹立たしい。この行為で快感を感じているのはお互い様だろうに、そうでなければ彼もこれを拒むだろうに、まるでただバーナビーの衝動を受け止めているだけだとでもいう風情にいらだつ。
(フラストレーション発散のための)
(ただ快楽を求めるだけのセックス)
(ふれあうことに意味などなくて───)
この関係がどう始まったのか、はっきりとは覚えていない。たぶん最初は酔った末の勢いだったように思う。最初こそ、どうしてそんなことをしてしまったのか…と思いはしたが、一度寝てしまえば同じことだった。
虎徹もバーナビーも健康な男で、互いに伴侶も恋人もいない。ヒーローであることを隠している虎徹も、ヒーローとして顔出しをしているバーナビーもまた不用意に女性に手を出すわけにもいかなくて、だから二人はフラストレーションの発散の相手として仕事上のパートーナーを選び、ずるずるとその関係を続けている。
ただの欲求解消のための手段だ。それ以上の意味はない。
仕事上では最初ほど息が合わないことも激突することもなくなったけれど、それ以上どうなるものでもない。バーナビーは仕事以外で虎徹と…人と関わる気などないのだから。いましているこの行為も、ある意味仕事の延長のようなものだった。
虎徹がこれをどう思っているのかは知らない。なにかとバーナビーにかまい、『ちゃんと飯食ってる?』などとプライベートにまで踏み込んでこようとする彼が、なにを考えてこの関係を続けているのかなど、バーナビーは考えようとはしなかった。
それは必要ないことだ───考えるべきことではないから。
「……バニーちゃん?」
どこか上の空のバーナビーを、再び虎徹が呼ぶ。我に返って見下ろせば、ぬれた金色の瞳がバーナビーをまっすぐ見上げていた。獣のように純粋で嘘をつかない瞳が、いまは熱を宿して彼だけを映している。
「バーナビー…」
かすれた声が自分の名前を呼ぶのにたまらない気持ちになって、バーナビーはその言葉を封じるように虎徹にのしかかり、前触れもなく激しい注送を始める。ゆさぶられた彼は悲鳴のような声をあげて明確な言葉を失った。
(雨に彩られた記憶)
(それはどんな記憶だった?)
(雨と共に消えたもの)
(それはおまえにとってどんな存在だったか───)
雨の音が聞こえている。
けしてうるさくはない静かな響き。
バーナビーの耳に聞こえているそれはけして冷たいものではなかったけれど、どこか不安をかきたてる音だった。なにが、ということもない漠然とした不安。やわらかい静かなその音に追いつめられ、居場所をうしなっていくような、そんな心地がしていた。
バーナビーはいつも感じているその不安を押し込めて、己のベッドの上で身じろぎした。視線をめぐらせばそこには、墜落するように気を失った虎徹が無防備に横たわっている。
男二人でいつまでもベッドにいるなんて、と思ったけれど、けだるさが気持ちよくて、バーナビーは意識のない虎徹に寄り添うようにベッドに横たわっていた。男同士で恋人でもないのにべたべたする気など毛頭なかったけれど、人の体温が気持ちよくて、気を失っている今ならいいかとバーナビーはそっと虎徹の肩を抱き寄せる。
けれどその瞬間、虎徹の腹部にある傷が目に入って、バーナビーは眉を寄せた。
まだうっすらとピンク色をしているそれは、半月ほど前仕事中につけたものだ。公共施設で爆発騒ぎがあり、崩壊する建物から子供を守ろうとして虎徹は瓦礫を腹部に受けることになった。瓦礫は大きなものではなかったが、ヒーロースーツを突き破るだけの威力はあったから、能力の切れていた虎徹はそこに傷を負ったのだ。
スーツがなければ、あるいは頭部であったなら彼は死んでいただろう。骨や内蔵にも影響がなかったのはたんに運がよかっただけだ。スーツの中でかなり出血していたが、ネクスト特有の回復力で、数日で仕事に復帰できる程度の怪我ですんでいた。
子供を庇った虎徹に向かって瓦礫が落ちてきた瞬間の、あのぞっとするような感覚をどう表現していいのかわからない。ヒーローはやはり生身の人間で、怪我もすれば死ぬことだってありうるのだ、ということを思い知ったからかも知れない。
死も怪我も覚悟していたつもりバーナビーには覚悟が足りていなかった。そう思わなければ、あの瞬間の衝撃は理解できない。脳裏が真っ白になって、息ができなくなった。足もとに地面があるという当たり前のことさえ感じられなかった。崩落が一度ですむとは限らないのだから、すぐに虎徹がかばった子供を助けに動かなければならなかったのに、そんなことにも考えが回らなかった。
結局虎徹は助けた子供にやさしく声をかけて逃がした後、バーナビーの目の前で倒れて意識を失った。ヒーロースーツが破損しているのを見て、バーナビーは慌てて彼をアポロンメディアの車まで運んだのだ。意識を失った彼からエンジニア達がスーツをはぎとったけれど、その内側は血にまみれていた。
その色を見てバーナビーは再びよろめいた。はっきりと怖い、と思った。なにがかはわからないけれど、とにかく怖かった。
あの時虎徹に意識がなくてよかったと思う。そうでなければ『バニーちゃんは血が怖いんだな』などと言って、後々からかわれるネタになったかも知れない。無様なところ見られなくて本当によかった。彼にはあの時の自分の表情などけして見せたくはなかったから。
その時負った傷が、ピンク色の跡になって虎徹の肌の上に残っている。あれだけの怪我が二週間でこれだけになるのはネクストであるがゆえだが、逆に言えば二週間経って残っている傷跡はずっとこのまま残るのだろう。
女性ではないし人から見える場所でもないのだから問題ないのだろう、と思いながらも、なんとなくいらだつ気持ちをかかえて、バーナビーはその傷跡をなぞった。指先にわずかに盛り上がった皮膚を感じて、それを確認するように何度も何度も。
「ん……バニー…?」
何度も撫でられて、さすがにくすぐったいのか虎徹が目を覚ます。バーナビーがそれにも構わずに、今度は手のひら全体でその傷をなぞると、虎徹はむずがるように首を振ってバーナビーの手首をつかんだ。
「なにしてんの…って、ちょ、そこさわんなっ……!」
「痛むんですか?」
「痛くねえ、けどなんかぞわぞわすんだよ」
おまえにさわられると、と言われて一瞬カッとする。その意味を深く考える前に、バーナビーは虎徹の傷跡を指先で軽く押して低い声で言った。
「これ、跡になりますよ」
「勲章だろう?」
まだまどろみから覚めきっていないとろりとした目でバーナビーを見上げながら、にやりと笑って虎徹が言う。その笑みにはヒーローとしての覚悟や自負が滲んでいて、不覚にもバーナビーはそれを少し格好良いと思ってしまう。思って、同時に激しくいらだった。怪我をしたのに、スーツがなければ死んでいたかも知れないのに、そんな風に能天気に笑う彼が許せなかった。
「もっと慎重になってください」
何度も何度も繰り返した言葉。思いつきやカンで行動しないで、周りの状況を計算しろと。闇雲に人を助けようとするのではなく、セオリーを考え『ヒーローらしく』ポイントのことも気にしろと。
そんなことはもう言っても無駄だと知っている。虎徹はなにも考えずに目の前にいる人間をただ救おうとする。それは本能のようなもので、まず自分の身の安全をはかるという本能がこの男にはついていない。そんな人間になにを言ったって無駄なことだ。そんなことはもう重々わかっている。わかっているけれども────
「あなたがそんなだと、僕は」
自分がなにを言おうとしているのかバーナビー自身にもわからなかった。虎徹がどうだと自分はどうなるというのか、形にならない胸の中のこのもやもやした気持ちはなんなのか、バーナビーにはわからない。
雨の音は今も聞こえている。バーナビーの中のよどんだなにかを煽るように。静かに、ゆるやかに。その音でなにかがフラッシュバックしそうな気がして、バーナビーは声をつまらせた。
「僕は……」
言いかけたバーナビーのくちびるに、そっと虎徹の指がのびてふれる。虎徹は体を起こして、そのままバーナビーの言葉を奪うようにくちづけて来た。
「………」
なだめられている、と思いながらも、紡ぐ言葉の先も思いつかずにバーナビーはそのままキスを深くした。虎徹の手がバーナビーの首筋に回り、彼の髪をかき乱す。その指に心まで乱される心地がしながら、バーナビーはおぼつかない心のままに虎徹を見下ろした。
「……バニーちゃん、俺はもう二度と大事なものは持たないことにしたんだ」
キスの合間に、虎徹はほほえみながら吐息のようにそうささやいた。バーナビーの中で響いている雨の音のように、おだやかで静かな笑み。彼を包み、突き放す、どこか距離のある表情。
「だから娘とは一緒に暮らさないし、再婚もしない……恋人も作らない」
どうして、と問うことをバーナビーはしなかった。
自分の中のなにかが、それを押しとどめている。
───雨の音が聞こえていて。
その音が、バーナビーから言葉を奪う。聞いてはいけない踏み込んではいけない……もう、これ以上。
雨は言葉を奪い、熱を奪い、想いを奪っていく。薄暗い部屋の中、二人はただ見えない雨にぬれそぼっていく。
寄り添いながら体温を分け合うこともなく、一人と一人のままで───
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