スザクにとって世界は広く、うつくしく、そして同時に狭く陰うつだった。
 枢木という家の長子として生まれた存在。たった九つかそこらでも、その名前はスザクの上に重くのし掛かっている。
 世界を狭めるほどに。世界をひどく暗いものに変えてしまうほどに。
 スザクは驕慢な子供だった。彼には力があり、体を使ってやること全般に高い才能があった。それゆえにスザクは辺り一帯の子供の上に君臨し、ある意味で支配していたのだ。
 子供にとって力というものは全てに勝る能力だ。勉強や他の能力がものを言い始めるのはもっと遅かったし、そして力のないものが暴力的だというだけでスザクを馬鹿にできないほどには、彼は学校の成績も悪くはなかった。
 だからといってスザクが力におごる暴君だったというわけではない。彼ははっきりと自分より弱いもの、力を持たぬものにその力をふるうことはなかったし、むやみと暴力に訴えるような真似はしなかった。
 けれど彼のルールに従わないものには、その力を持って思い知らせた。そのルールがたとえば弱いものには手を上げない、などという世間一般で見て正しいものであったとしても、力を持って彼が周りを押さえつけていたという事実には変わりはない。
 スザクは彼の狭い世界の中で頂点にいる王様だった。そんなものになりたいと彼自身が望んだわけではなかったが、彼が自分のルールを守ろうとすれば自然とそうなっていく。スザクは他人のルールを理解し、許容できるような子供ではなかった。
 それでも弱者に手を上げないスザクである。そうした大人しい人間から慕われ、近しい友人ができてもおかしくはなかったが、彼はあくまで王様でありつづけ、だれか親しい友人ができることはなかった。
────枢木、という名前。その意味を、スザクは長ずるにつれ次第に理解していった。
「スザクくん、これあげるよ!こないだの、お礼」
 ある時ひとりの少年が彼の家の前を通りがかったスザクを呼び止めて、ナプキンに包まれた焼き菓子を差し出してきたことがある。その前日にスザクはその少年がいじめられているのを助けたばかりで、彼は感謝の気持ちを満面にたたえてその菓子を差し出していた。
 焼き菓子はすこし形の崩れたもので、たぶん少年の母親の手作りなのだろう。少年にとってそれはとっておきのお菓子で、それをわざわざとっておいてスザクにくれようとしたのだ。
 スザクはその素朴な菓子にこめられた気持ちがうれしくなって、ありがとう、と言ってそれを受け取ろうとした。その時、家の中から彼の母親が出てきて、あわてて言ったのだ。
「まあ、賢くんだめよ!枢木くんにそんなの…失礼でしょう」
 そう叫ぶように言うと、母親は少年の手からその焼き菓子を奪った。勢い込んでつかまれた菓子は、ナプキンの中でぐしゃりとつぶれてしまう。スザクはそれを見て、あ…と悲しい気持ちになったが、そんなことにはその母親は気づかない。
「すみません、こんなもの…この子ったらわかってなくて。失礼しました」
「え、あの…」
 あわてて少年にもむりやり頭を下げさせる母親の勢いに飲まれて、スザクはぼんやりと立ち尽くした。その目には母親の手の中のつぶれてしまったお菓子と、少年の驚いた瞳が映る。母親が違う生き物にでもなったような、そんな驚きの表情。
「なにかこの子がお世話になったようで、またお宅にあらためてお礼にうかがいます。もっとちゃんとしたものを持っていきますから。……お父様はいつごろご在宅かしら」
 少年の母親は早口にそう言って、にっこりと笑った。そんな母親を見上げて、少年は不思議そうな顔をする。それからその視線をスザクに向けて、困惑したように眉を寄せた。
「いいです、そんなの。なにもしてないし、お礼とか別に…」
「そういうわけにはいかないわ、枢木くん、おとうさまに…」
「すみません、失礼します」
 スザクはいたたまれなくなって、その母親がそれ以上なにか言う前にくるりと踵をかえして駆け出した。うしろから少年の母親の声が聞こえたけれど、スザクは振り返らなかった。その脳裏に少年の表情が浮かぶ。彼がスザクに向けた目。母親が最初になにか言い出したのを見た時と同じ、まるで違う生き物を見るような視線。
 あの子はもう二度とスザクに近づいて来ようとはしないだろう。無視したり遠巻きにするという意味ではない。精神的な意味で、彼に歩み寄ることは二度とないだろうとそうスザクは思った。



 人の上に立つ人間になれ、とそう育てられた。
 人の上に立つということは誰よりも優秀であれ、とそういう意味だと思っていた。あらゆる面において秀で、人の尊敬を集められる人間であれという意味だと思っていた。
 けれど違う。それは違うのだとスザクは知る。
 それは人々とは違う場所に立つということだ。
 特別なものとして区別され、自分たちとは違う次元の存在だとそう思われるということだ。
 スザクは最初から周りの少年たちとは違う位置に立っていた。枢木という、人の上に立つべき家の人間として生まれついた彼は────



───その小さなこどもの孤独を、誰が知っているの?



 スザクはずっと、知らなかった。
 自分に屈しない人間を。
 自分に媚びない人間を。
 己の信じた世界の外から、違う方法を持って彼を打ち負かす存在。彼に世界は広くうつくしいのだと、そう教えてくれる存在を。
 その出会いの日まで。
 その、運命の日まで。



NEXT