その兄妹は結局、そのままその蔵で暮らすことになった。まともに人が暮らす場所ではない、そのがらくただらけの物置で。
 ブリタニアからやってきたその皇子の名を、ルルーシュと言うのだと、スザクは後から知った。いや、おそらく父たちの会話の中には以前からでていたのだろうが、実際に本人に会うまで、スザクは彼の名前になど興味がなかったのだ。
 名前に興味がなかったのは、ルルーシュの方も同じだっただろう。けれど彼の方は、スザクの名を情報として覚えていた。しかしそれは、あくまでも枢木家のあととりの名前として、自分を取り巻く環境の中にある一つとして記録したに過ぎない。
 ルルーシュにとって枢木という名前はまったく意味がないようだった。むしろそれは唾棄すべき下等な存在らしい。それはそれでむかついたが、だからといって彼は、スザクのことをその名で評価するわけではなかった。
 それはルルーシュが自分の生まれゆえに無意識に『家』や『血』で人を区別することの愚かしさを知っていたからだったが、スザクにはそれはわからない。
 ただルルーシュにとってスザクは、その身一つの価値しかないということだけがわかった。スザクの持つ能力、スザク自身の性格、その言葉そのものにルルーシュは耳を傾け反論してくる。
 そう…反論をしてくるのだ。ルルーシュたちがやってきて十日あまりで、スザクとルルーシュはそこまでは近づいていた。ルルーシュたちは土蔵にこもったきり、枢木家の手伝いの手も拒絶して、二人きりで過ごしていた。外界からの手を拒絶する彼らに接触したのは、だからスザクの方からだった。
 憎むべきブリタニアの皇子。弱いのにスザクに刃向かってくる、生意気でいけすかない少年。だけどスザクは、その存在が気になって気になって仕方がなかった。枢木の名にひるまず、スザクに立ち向かってキッと顔をあげるその表情。同じ年頃の少年が、自分と対等の目をするのをスザクは初めて見た。
 それはルルーシュが皇子だからだろうか。ブリタニア人だからだろうか。枢木の名の持つ力を理解していないからなのか。───違うのだ、とスザクは思う。
 彼らは人質で、弱い立場で、ブリタニアから送り出された…言わば見捨てられた立場なのだ。頭のいいルルーシュがそれに気づいていないわけもなく、だから彼は自分の生まれや立場を笠に着ているわけではない。スザクをスザクとしてしか見ないように、ルルーシュはただルルーシュとしてその矜持を保っていた。
 ただその身一つで、彼は誇り高く顔をあげているのだ。誰にも負けず、誰にも屈することなく、ただ妹を守るために。妹を守り、そして自分が『生きる』ために。
 自分と同じ年頃でありながら、そんな風にきっちりと自分だけの足で立とうとするルルーシュに、スザクは憧憬と共に羞恥を感じた。スザクは自分で立ってはいない。枢木の家という枠に押し込められ、もがきながらも、そこから抜け出せはしなかった。抜け出せるなんて思いもしなかった。
 スザクの住む世界では絶大な力を持つ枢木という名が、ルルーシュ相手では全く意味を持たない。ルルーシュの前でスザクはただのスザクで、秘密基地でひとりきりになったときそうであったように、彼ュの前でスザクは自分自身であれた。枢木という名。それそのものに伴う権力と責任、そして期待をすべて振りきることができた。どれだけ人に囲まれていても、スザクが常に感じていた孤独。それを、その生意気なブリタニア人の前では感じずにすんだのだ。
 だからスザクはここのところ、無意識のうちにルルーシュに会いに行ってしまう。その目を見たいと思ってしまう。自分のその感情には気づかぬまま、その日も知らぬうちに彼は土蔵に足を向けていた。
 スザクが彼らの住む土蔵にたどり着いた時、ルルーシュはたまたま外から帰っていた所だったらしい。買い物カゴを抱えて、蔵の外に立っていたが、スザクの姿に気づくと、ハッとしたように身を固くした。
 遠目からも、その頬に擦り傷が、服には泥がついているのがわかる。まるでスザクからそれを隠すように踵を返したルルーシュを見て、スザクはムカッとして乱暴な足取りで彼のもとへと近づいて行った。
「また誰かに殴られたのか?」
 土蔵の中に入る直前にその腕をつかまえて、スザクはそう問い掛けた。ルルーシュは聞かれたくなさそうにスザクから目を反らすと、その手を振りほどこうとする。けれどスザクはそれを離さない。離さずにじっとルルーシュのケガを観察した。
 おそらく町に降りてそのへんの子供に数人がかりでやられたのだろう。ルルーシュの体のあちこちには痣ができ、服もひどいありさまになっていた。袖口がやぶれて肩のあたりが露出しているのを、なぜかスザクは直視できない。
「町に行く時は俺を呼べって言っただろう」
 その言葉にルルーシュは一瞬顔を上げ、そしてまたスザクから目を反らした。スザクがその場にいたならひょっとしたらルルーシュは彼に声をかけていたかもしれない。けれどわざわざスザクを呼んでまで、ルルーシュは彼に頼ることはできなかったのだ。スザクに枢木の権力を主張するつもりはなくとも、それとは関係なく、ルルーシュは彼に頭をさげて自分を守って欲しいと言うことはできない。
 それは彼が生きるための矜持だった。それをスザクも、もう知っている。自分を頼ろうとはしないルルーシュの態度が腹立たしくて、なぜかせつなくて、スザクは自分の力のなさを噛みしめる。
 その内心のわけのわからない衝動のままに、スザクはぐいっとルルーシュの腕をひっぱった。傷がひきつれるのかルルーシュは一瞬顔をしかめたけれど、痛いとはけして口にしない。ただスザクのその行動に眉を寄せただけだった。
「どこに行くんだ」
「手当てしてやる」
「いいよ」
 スザクが彼の腕をぐいぐい引っ張って歩きながらそう言うと、ルルーシュはハッとしてその手を引き離そうとする。手当てをされることさえ拒もうとする彼に、スザクはわざとそっけない声で言ってやった。
「ほっといて悪化したらどうすんだ。おまえの妹が心配するだろ」
「っ…」
 ナナリーの名前を出されて、ルルーシュが押し黙る。ナナリーに心配させないために、と我慢することにしたのか、それともスザクの手を振りほどけないことを思い知ったのか、それからルルーシュは大人しくスザクに引きずられて行った。
 スザクは道場にルルーシュを連れて行くと、そこに常備されている救急箱をとり出した。ケガの手当てなら慣れている。てきぱきとルルーシュの顔や腕のケガを消毒し、薬を塗ってやると、スザクは何気なく言った。
「ほら、シャツ脱げよ。下にもケガしてるんだろ?」
 本当になにげなく、なにも思わずにそう口にして、一瞬の後にスザクはなぜかカアッと顔を赤くした。どうしてだかわからないけれど、ルルーシュが戸惑いながらシャツに手をかけた途端、いたたまれないような恥ずかしさが襲ってきたのだ。
 そしてルルーシュの方も、シャツのボタンに手をかけただけで、ぐずぐずといつまでもそれを脱ごうとはしなかった。
「なにもじもじしてんだよ、女じゃあるまいし」
 そうは言ったけれど、なんとなくもじもじしているのはスザクも一緒だった。ルルーシュの方はたぶん、スザクに較べて細い自分の体を見せることに羞恥心を覚えているのだろう。それはプライドの問題で、少女のような羞恥とは少し違う。
 いちいち彼にはりあおうとするルルーシュのそうした自尊心を、スザクは生意気にも、好ましくも、そしてどこかかわいくも思った。ルルーシュがスザクに体力的にかなわないのなどわかりきったことなのに、スザクはルルーシュに知識ではまったくかなわないのだからそれでかまわないはずなのに、それでもはり合おうとするルルーシュの性質が、スザクは嫌いではない。
「ほら、早く」
 スザクが赤くなりながらも重ねてうながすと、ルルーシュはしぶしぶと服を脱ぎ始めた。おそらくルルーシュ自身がきちんとアイロンを当てた白いシャツ。そのボタンが外されるのを、スザクはなぜか少し息を呑んで見つめていた。
「……なんだ」
 あまりにもスザクがまじまじと自分の体をのぞきこむのに、いたたまれなくなったようにルルーシュが眉を寄せて問い掛ける。スザクはルルーシュのあらわになった肌を、ドキドキしながらじっと見つめてしまう。
「なんか、へんな皮膚の色」
「君とは人種が違うんだから当たり前だろう。僕らは日に当たったって黒くはならないからな」
 ルルーシュはなんだそんなことか、というようにため息交じりにそう言った。スザクの視線の意味を、自分の貧弱さをからかうものと勘違いしていたのかも知れない。
 スザクはルルーシュの肌の色を、変だ、と言ったけれど、実際はそんな風に思ったわけではなかった。自分とは違う、と思いはしたけれど、それを異質に感じたのではない。
 スザクが感じたのは、ルルーシュの瞳を初めて見た時のような、ぞくぞくする感覚だった。キレイだと思った。そして同時に、もっと本能的な強い衝動を突き動かされる感じがしたのだ。
 スザクはその感覚を振り払うように軽く頭を振ると、気を取り直してルルーシュに向き直った。破れた袖の間から木の枝でも当たったのか、ルルーシュの肩のあたりには、やや深い裂傷ができていた。傷口からはうっすらと赤い血がにじみ、周辺はやや黒っぽく変色している。
 こんな傷を手当てもせずにいるつもりだったのかとルルーシュに腹をたて、そしてそのケガを負わせた人間にいっそう腹をたてた。自分に声をかけろと言ったのに、勝手にひとりで町に行くからこういう目にあうのだと思った。それくらい頼ればいいのに、スザクを利用すればいいのに、この皇子様はまっすぐで誇り高すぎる。
「染みるぞ」
 そして頼ってもらえない自分にさえ腹をたてて、スザクは消毒薬をしみこませた綿をピンセットでつまむと、やや乱暴なしぐさでルルーシュの傷口に押し当てた。
「っ、うっ…」
「染みるって言っただろ」
 ルルーシュが眉を寄せてうめきをもらすのに、スザクはそっけなくそう言ってやる。そんな風にしなければ、手がふるえてしまいそうだった。白い肌を目にした動揺と、にじむようなくやしさと、胸の中に巣くうなにかもやもやとした感覚。それらがすべてないまぜになって、スザクの手をふるわせる。
 ルルーシュは顔を小さくしかめながらも、極力痛そうな顔を見せないようにしてスザクに怒鳴り返した。
「別に文句は言ってないだろう!」
「涙目になってんじゃん」
「なってない」
「なってるよ、ほら」
 そう言ってスザクがルルーシュの目元に手を伸ばすと、彼はビクンと肩をふるわせた。そのふるえにスザクもドキッとして手を止める。ほんの少しだけルルーシュの目元にたまって、キラッと光っている涙のつぶ。それを指先に感じて、スザクはぞくりとした。
 ルルーシュは、突然目元に指を寄せられて驚いたのかもしれない。涙の存在を知られて、動揺したのかもしれない。その動揺を示す肩のふるえが、どうしてか二人の時間を止めた。
 互いに向き合ったままで、なぜか二人とも沈黙してしまう。しんと静まり返った道場の中、その距離で見つめ合って、互いの吐息の音さえ聞こえていた。
 息ができない、と思った。
 戸惑ったように揺れながらスザクを見つめている紫の瞳。そのうつくしい色が、不安定な光が、スザクの胸のあたりをぎゅうっとつかんでしまう。苦しくて苦しくて、だけどその苦しさをいつまでも味わっていたいと思ってしまう。泣きたくなるような苦しさと幸福感の狭間。その感覚はなんだっただろう。
 紫の瞳の中に、自分の姿が映っている。そのことにスザクはぞくぞくした。そんな瞳の色をスザクは知らなかった。人種だけの問題ではない。その瞳には世界があるのだ。スザクとは違う世界を見て、枢木の名にしばられてきたスザクより、ずっと広い視野を持っている。
 初めて見た時にただ、きれいだ、と思ったその瞳は、きれいなだけじゃなかった。その瞳が映すものを見たいと思う───それはスザクにとっていろんな意味での、異邦のものだった。
「……スザク?」
 金縛りにあったように動けなくなったその沈黙を、先に破ったのはルルーシュの方だった。不審そうにというよりは、ただ沈黙をやぶるために彼はスザクの名を口にしたように思えた。
 見つめ合っていたのは、ほんの数秒だっただろうか。ルルーシュの声で金縛りのとけたスザクは、心臓がドキドキいうのを隠しながら、ややぞんざいなしぐさでルルーシュの手当ての続きをした。
「っ……」
 スザクのそんなしぐさに、ルルーシュもまたハッとしたように一瞬表情をゆるめて、それからまた痛みに顔をしかめた。それでも彼は痛いとは言わないから、スザクは遠慮なく手当てを進める。傷口を消毒し、薬を丁寧に塗り込む。スザクはルルーシュの肌にできたほんな小さな傷も見逃さずに、やや執拗なまでに手当てした。
 こんな真っ白で染みひとつない肌に、ケガの跡があるのが許せなかった。こんな綺麗な生き物に暴力をふるうのなんて信じられない、とスザクは出会った時の己の行動など忘れてそう思う。
 そんなことは、けして言葉には出せなかったけれど。




 その日の夜、スザクは夢を見た。
 ひどく断片的な、イメージのような夢。
 その夢にはルルーシュが出てきた。彼と出会ってからの短い期間にスザクが見た、ルルーシュの表情のすべて。
 初めて出会った時の、スザクをキッと睨みつけるルルーシュの顔。遠巻きに見かけた、ナナリーに向けるやわらかな表情。そして遠くを見ている、ひどく不安定で透明な瞳。
 くるくると変わって行くそれらを捕まえられずに、スザクは眠りの中でもがいた。手を伸ばしたいのに、スザクにはそれは許されない。どこかさみしそうなその紫の瞳に自分を映したくて、だけどそうすることでその瞳が濁るのではないかと思って、スザクはもがきながらも自分を呪縛するなにかを引きちぎることができなかった。
 そんなスザクの目の前で、イメージに過ぎなかったはずのルルーシュがふと顔をあげる。
 長いまつげをすっと上げて、その紫の瞳がスザクを見た。物おじすることなくまっすぐに向けられる透明な瞳。それがスザクを見て、ふわり、と微笑んだ。
 夢を見ながら、夢だと知りながらスザクはその笑みにみぶるいした。ルルーシュの笑う所など見たことがない。そんな表情はまぼろしのものだ。それなのにそのやわらかな笑みは、あざやかにスザクの脳裏に焼き付く。
 そしてふと気がつけば、スザクの視線の中のルルーシュは服を着ていなかった。その顔にだけ視線をやったまま唐突にその事実に気づいたスザクは、夢の中で硬直しながら、ゆっくりと視線を降ろして行く。ほっそりとした首筋。白くなめらかな肩には、傷はなかった。染みひとつないその肌をスザクの視線がたどる。それを知っているかのようにルルーシュは身じろぎ、ほほえんだまま赤いくちびるを開いた。
『スザク…』
「────っあ!」
 そのやわらかな声が刻んだ己の名に、スザクはびくんっと全身を跳ねさせた。ガタタッ、とベッドが激しい音をたてて、スザクは夢ではなく実際に自分の体が跳ねたのだと知る。
「ゆめ……」
 暗やみの中、ハア、と大きく息を吐きながら、確認するようにスザクはつぶやいた。夢だということは知っていた。なぜなら、スザクはルルーシュのあんな表情など見たことはなかったから。
 スザクは脳裏にさきほど夢で見たルルーシュのほほえみを甦らせて、なぜかカアッと赤くなりながら、真っ暗なベッドの上に起き上がった。身動きした瞬間、スザクは下肢に違和感を覚える。まさかこの年でおねしょとか、と慌てて下着の中に手を突っ込んで、彼はその違和感の正体を知った。
「う…わ……」
 ぬめったものが指先にふれて、スザクは肩をふるわせた。知識はある。それがどういうことかはスザクはもう知っている。だけどあんな夢を見てそうなったという事実に、スザクは体の熱をまた上げた。
 スザクはその日、精通を迎えたのだ。まだ友達ですらない異邦の少年の、見たことのない笑顔を思い浮かべて。



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