ナナリーが姿を消したのは、彼らがやってきてから半月後のある日のことだった。
雨の降りそうな曇り空のその日、枢木神社に続く長い階段で、スザクは壊れた車イスを見たのだ。枢木神社に車イスを使う人間は一人しかいない。それはもちろん、あの皇子の妹で……
「ナナリー!ナナリーなのか!」
車イスを見て戸惑うスザクの前に、ルルーシュが木々をかき分けて叫びながら飛び出してきた。その必死の姿に、スザクはぎょっとして目を見開いた。
信じられないことに、ルルーシュは泣いていたのだ。半狂乱で、必死になって、いつものどこか冷めたすました表情などどこにもない。取り繕うことなど忘れたその姿に、スザクは視線を奪われた。
妹とたった二人日本に来て土蔵に住まわされても、日本人の子供たちにいじめられ辱められても、なにがあっても泣いたりはしなかった少年がいま泣いている。自分の気持ちを覆い隠し、絶対に外に見せようとはしなかったのに、今のルルーシュは必死で、自分が泣いていることさえ気づいてはいないように見えた。
彼を泣かせたのは、泣かせることができたのは妹だけだったのだという事実に、スザクはどうしてか痛みを覚えた。必死で、ぐちゃぐちゃで、みっともない泣き顔。いつもルルーシュをおおっていた理性という殻がやぶれたその姿は、けれどとてもうつくしかった。
ほとんど無意識に、スザクはその表情をさせたのが自分だったらよかったのに、と思った。思って、そして、やっぱり彼にそんな表情をさせたくはないとも思う。それは本当に意識しない心の動きで、その感情の理由をスザクはまだ明確には知らなかった。
「いなくなったのか、あの子」
「君には関係ない」
そう言ってルルーシュはにべもなくスザクの関与を押しのけようとする。スザクはそれにムッとして、ルルーシュが来た方向とは違う方へと足を向けた。
「一緒に探す」
「日本人には助けて欲しくない」
「日本人とかブリタニア人とか関係あるか!」
あくまでも彼の手は借りたくないと言い募るルルーシュのかたくなさに、スザクは思わずそう叫んでいた。
スザクはほんの半月前まで、ブリタニア人をバカにしていた。武力で押すしかない、愚かな人種だと思っていた。そう教えられたから。彼の世界ではそれが常識だったから。
その観念はそう簡単にくつがえせはしない。だけど目の前のこの少年は、少なくとも彼だけは違うのだとスザクにはわかっていたから。スザクと同じように感情を持ち、その小さな体の中にさまざまな知識をつめこんで、スザクの知らない世界を知っている。かたくなで、誇り高くて、繊細で、なによりとてもきれいな生き物。
この生き物はスザクの手を拒否する。拒否してそしてスザクの知らない所で傷ついて、こんな風に泣いたりする。そんなのは許せなかった。耐えられなかった。自分が無力だというその事実が。
「俺が探したいから探すんだ!助けたい人間を助けるのに、理由がいるか!」
スザクはそう叫んで駆け出した。
差し出した手を拒否される。守ってやることも許されない。それならば───勝手に守ればいいのだ。スザクがそうしたいと思うなら、そうすればいい。
ルルーシュの意志に関わらず、それは彼が決めたことだから。
「ナナリー!どこだ、ナナリー!」
知り尽くした枢木神社の敷地の山を駆けながら、スザクは大声でその名を呼んだ。彼がその少女の名を呼んだことはいままでなかったけれど、探しているのだから仕方がない。スザクの声は木々にこだまして、あたりに響き渡った。
雨がパラパラと降り出す中をスザクは走る。まるで獣のように、慣れた山道を駆け上がった。そしてスザクには見慣れた、少し開けた場所に出た時、か細い声が下の方から聞こえてきた。
「───私はここです」
「ナナリー…?」
小さくてひかえめなその声に、スザクはゆっくりとそちらの方に近づいて行った。他のものならうっかりと見逃してしまったかも知れない、影になった穴の中をのぞき込む。
板で半ばフタをされていたその穴の中に、少女はいた。
「どなたですか。その声…スザク、さん…?」
「そうだよ、スザクだ。ルルーシュが探してたから」
やや怯えた声が問うて来るのに、スザクはできるだけやさしい声でそう言った。盲目の少女にとって、こんな状況で近づいてくる人間はすべて恐怖の対象なのだろう。そしてそれがスザクだと知っても、彼女に危害を加えないと言う保証はない。なぜならスザクは初めて会ったその時に、彼女の兄に暴力をふるったのだから。
けれど少女はスザクの気配を探るように数秒沈黙して、それからほっとしたように肩の力を抜いた。そのしぐさはまるで、人にけして慣れることのないうつくしい生き物が、害意のないものを見極めたかのように思えた。
「お兄さまと一緒に探してくださったんですか?私、ここに落ちてしまって…」
「ここは、俺の秘密基地なんだ。俺が穴を掘って作った…雨も当たらないだろう?」
言いながらスザクは少女の落ちた穴の中に自分も入って行って、その穴の広さを教えてやる。さりげなく少女の手足に視線を走らせてケガをしていないのを確かめると、先程から振り出した雨に彼女がぬれないように、中途半端に閉まったフタの角度を変えてやった。
「奥の方に食料も隠してあるんだ。二・三日は隠れて暮らせるぞ」
「まあ」
すごいだろう、というようにスザクが言ってやると、ナナリーはちょっとびっくりした顔をして、それからクスクスと笑った。
いままでスザクが会った時には、兄以外のすべてが恐ろしい敵だと言うようにこわばった顔をしていたけれど、そうやって笑うとナナリーはとてもかわいかった。その幼い顔の上にスザクはルルーシュのそれを重ねて、あいつも笑えばいいのに、と思う。
夢で見たほほえみ。それはとてもきれいで、愛らしくて、そしてナナリーのそれとは違う、なにか他の色が混じっていた。ただ無垢なばかりではないうつくしい色合い。それがなまめかしいということなのだとは、いまだ幼いスザクにはわからない。
ナナリーが落ち着いたのを見計らうと、スザクは立ち上がって穴から出ようとした。いまだに半狂乱でナナリーを探しているだろうルルーシュに、彼女はここにいると伝えようと思ったのだ。
けれどそんなスザクを、ナナリーの小さな手が引き止めた。
「待ってください、スザクさん。少しだけ…私の話を聞いてくださいませんか」
そう言った少女の顔は、幼いながら真剣で、侵しがたい強い意志が見えていた。盲目で、歩くこともできない、なんの力も持たない少女。けれど彼女は彼女にとってたった一つ大切なもののために、毅然と頭をもたげる。
その表情になにか感じるものがあって、スザクはもう一度穴の中に座り直した。ルルーシュが心配しているあろうが、こうしてナナリーは無事でいるのだ。彼女がなにかを伝えようとしてくれている、この貴重な機会を逃したくなかった。
スザクの掘った小さな穴蔵の中、その秘密基地の中でナナリーはぽつりぽつりと自分たちのことを語った。自分と兄のこと、母親のこと、身分も後ろ盾も失った自分たちの行く末のこと。
聞きながらスザクはいままでの自分の態度を恥じた。そして同時に、少女が自分に兄のことを託そうとしているのだと気づいて、浮き立つような誇らしさを感じた。
ルルーシュはスザクの手を拒んだ。誰の手もいらないと、妹を守るために傷だらけになりながらも、泣くことも笑うこともせずにすべてを拒んでいた。それならば勝手に助けようと、そう思ったけれど。
妹だけでも、スザクを認めてくれている。兄を託そうとしてくれている。そのことがスザクは、とても嬉しかった。
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