その後、ナナリーの歌う歌に誘われるようにして、ルルーシュはスザクたちがいた秘密基地へとたどり着いた。三人でその基地の中で過ごして、笑って、少しだけ泣いて、それからスザクがナナリーを背負って枢木神社の土蔵へと帰った。
ルルーシュは自分が背負うと言ったけれど、スザクが自分の方が足もとになにがあるかわかっているんだからと譲らなかった。ナナリーを背負って転んだらどうするんだ、というスザクの言葉に、ルルーシュはそれ以上言い張ることもできなかったようだ。
なにより、ナナリーが素直にスザクに身を預けたのが大きかったのだろう。その様子を見てルルーシュは軽くショックを受けたように目を見開いたけれど、なにか文句をつけることはなかった。その素直さにスザクの方が驚いたほどだ。
蔵に帰り着くと、ルルーシュたちがベッドにしている場所にナナリーを降ろすと、ケットの中に埋もれて、彼女はすやすやと眠ってしまった。車イスから落ちたり、少しだけど雨に濡れたりして、疲れてしまったのだろう。兄とスザクに見守られて眠る姿は無防備で、天使のように愛らしかった。
そんな妹を、ルルーシュはおだやかな目で見つめていた。その瞳の色がいままでよりずっとやわらいで見えるのは気のせいだろうか。ナナリーと二人きりで話している所を遠くから見ても、ルルーシュの表情にはどこか固さがあった。それが今日は消えて見えるのだ。
「今日は…ありがとう」
思わずその横顔をまじまじと見つめてしまったスザクの視線にも気づかず、妹の顔に目を落としたままルルーシュがぽつりと言った。その、うっかり聞き逃してしまいそうなつぶやきに、スザクの時が数秒止まる。
「え」
いま礼を言われた?と気づくのにしばしの時間を要した。この頑なな少年から、そんな素直な言葉が発せられるとは思わなかったのだ。
じっと彼を見つめるスザクの視線が気まずいのか、少しだけ頬を赤くしながら、目を反らしたままルルーシュは言葉を続ける。
「ありがとう…ナナリーを助けてくれて。それに…ナナリーを笑わせてくれて」
そう言うルルーシュは神妙な顔をしながら少し悔しそうで、そのしぐさがかえって、彼のその言葉が本心だと知らせてくれる。スザクの手を借りたことは悔しくて、だけど本気でありがたいと思っている。それを認めている。あのどこまでも頑なだった皇子様が。
「僕にはできなかった。視野が狭くなって、ずっと頑なな気持ちのままでいたから。僕自身が笑えなかったから」
「え、うん……」
ほほえみながらありがとう、と繰り返されて、ドギマギしながらスザクはうなずいた。ルルーシュの自省の言葉を否定してやりたい気もしたけれど、それは違うのだと思った。ルルーシュは認めなければならない。自分の弱さを。自分になにができてなにができないのかを。そのために、人に頼るということを覚えるべきなのだ。
そう思って言葉をぐっとこらえたスザクの内心を知ってか知らずか、ルルーシュはスザクの方を見ないまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「スザク…僕は君を誤解していたかもしれない。どうしても、君は日本人で枢木の人間だから、敵だと思っていた」
誤解していた、ということは今はもう敵だと思っていないと言うことだろうか。妹以外の周りのすべてが敵だ、という顔をしていた彼の内側に、すこしはスザクも入れたと言うことなのだろうか。スザクがそう思って、じんわりと嬉しくなっていると、不意にルルーシュが顔をあげた。
「スザク、頼みがあるんだ」
スザクを見つめて、ルルーシュがやや強い口調で言った。
まっすぐに自分をつめてくるる紫の瞳。すぐ近くにその瞳があることに、スザクはドキリとする。その白い顔に浮かぶ表情は、先刻ナナリーが見せた毅然とした表情と酷似していた。なにかを心に決めて、その道を行こうとしているしなやかな強さを持つ者の表情。
スザクの内心までも見通そうとするようにじっと目を見つめて、ルルーシュは吐息のようなささやく声で言った。
「ナナリーを守って欲しい」
どこか祈るような、静謐な声。紫の瞳を見つめながらスザクは、ああこいつは俺に祈っているんだ、とそう思った。スザクに彼の祈りが届くように。その思いが心から伝わるように。そう思って、ルルーシュはまっすぐ真摯にスザクを見つめている。
「僕一人では守りきれない。身体的にも、精神的にも、僕にはそこまでの力がない」
「いいよ」
だから、と言葉を続けようとしたルルーシュを遮って、スザクはあっさりとそう言った。スザクにとってそれは考える必要のないことだった。むしろルルーシュにそう言われて、自分が望んでいたのはこういうことだったのだと思いさえした。
「スザク、そんな簡単に」
「男同士の神聖な誓いだ」
あまりにあっさりと返されたスザクの言葉に、ルルーシュは咎めるような視線を寄越す。それにスザクは真剣な顔で、たやすく言ったわけではないのだと知らせた。
「ルルーシュ」
スザクはそう呼びかけて、それから続ける言葉に迷って口ごもった。
ルルーシュに出会ってからの心情を、スザクはどう伝えたらいいのかわからなかった。スザクはずっと一人だった。枢木の家に守られ、子供たちの先頭に立ち、それでも心は一人だった。彼の横に並び立つ人間などいなかったのだ。彼に本気の言葉を聞かせる人間も、誰も。
スザクは常に枢木スザクだった。日本という国の中、この小さな世界でそれは絶対的なことだったのだ。
だけどそれは違うのだとルルーシュが教えてくれた。スザクの小さな世界の崩壊。それはなんてあざやかで幸福なことだっただろう。スザクは唯一無二の存在などではない。ルルーシュにとってスザクはスザクという一人の人間で、それを認めた上で、彼はスザクの手を取ろうとしてくれている。
それを断るはずなんてない。ルルーシュが手を伸ばしてくれるなら、絶対にそれを離さない。スザクがそれを守り、それに導かれ、どこまでも行くのだ。
「ルルーシュ…俺は体力もあるし体を動かしてやることなら誰にも負けない自信がある。頭も、そんなに悪くないと思う」
枢木の名が支配する世界にいた頃、スザクは自分を神にも等しい存在に感じていた。誰も彼には逆らえない。誰も彼にはかなわない。そう思っていたから。だけど、そうではないのだとスザクは知った。ルルーシュがそれを教えてくれたのだ。
「だけど、俺は世界を知らない」
狭い世界で生きてきた。そこにある正義だけがすべてだと思っていた。
「枢木の名前の響く場所でずっと生きてきて、枢木の子供であることが当たり前で、日本人で、ブリタニアは敵で…それが、当たり前だと思っていた。それ以外の世界なんて想像もできなかった」
無知を知ることは、恐ろしいほどスザクの世界を変えた。ならばもっと世界を知れば、どうなるのだろう。自分は一人ではないと思うことができた。それ以上にもっとドキドキするようなことが、世界にはあふれているのではないのか。世界…ルルーシュの瞳が見る、その世界には。
「ルルーシュ、俺に世界を教えてくれ。世界を…見せて」
それが自分の力を貸す代償だ、とスザクは言った。スザクが二人を守る代わりに、ルルーシュはスザクに世界を教える。その瞳に映るその広い世界を、全部見せてくれる。それが契約。幼いけれど、それはたしかに神聖な誓いだった。
「契約は成立だな」
スザクの言葉に耳を傾け、その瞳を見つめて、彼の言った言葉が本心からのものであると理解できたらしい。ルルーシュは静かにほほえむと、どこか挑戦的な目をしてやや強い口調で言った。
「僕は、君に世界を教える。世界の高みを見せてやる。誰も見ることのできない世界の高みまで君を連れて行ってやるよ。だからスザク、君はナナリーを守ってくれ」
「誓うよ」
短く、けれど力強くスザクは答えた。答えてから、ふと、それだけでは物足りない気がして、身を乗り出してルルーシュに問い掛ける。
「こういうのって、なにか儀式とかするんじゃないの」
「儀式?」
スザクの問い掛けに、ルルーシュは小首をかしげて少し考え込んだようだった。けれどなにか思い当たったのか、顔を上げてすこしだけ戸惑うそぶりでスザクの方を見る。
「じゃあ…」
「え?」
ルルーシュが身を乗り出して自分の方に顔を近づけるのに、スザクは硬直してしまった。そして驚く間もなくルルーシュのくちびるがスザクのそれに重なり、あっという間に離れて行く。
「……」
スザクは突然のことに驚いて、言葉も出せずにルルーシュを見つめた。思わず指先で自分のくちびるにふれる。そこについさっきふれたやわらかな感触を思い出し、それからカアアアッと顔を赤くする。
「ブ、ブリタニアでは、誓約の時にキスをするんだ」
真っ赤になったスザクが見つめると、ルルーシュもまた目を反らしながら赤くなった。
それは、正確には誓約全般ではなく婚姻の誓いの時の話なのだが、ルルーシュはその頃なにか誤解していたらしい。もちろんスザクは、それが間違った知識なのだとは知るはずもない。
たださきほどふれたルルーシュのくちびるの感触を思い出して、ドキドキするばかりだ。
心臓がばくばくして、呼吸がうまくできなくて、スザクは紅潮した顔で身を乗り出してルルーシュに要求する。
「もう一回して」
「え、うん…」
ルルーシュは戸惑いながらも、拒むこともなくもう一度スザクにそっとキスをくれる。さっきよりゆっくりとふれて、ゆっくりと離れたそのやわらかさに、スザクはうっとりとした。
「もう一回」
その感触を味わいたくて、離しがたくて、スザクはまたそう要求してしまう。ルルーシュはそれでも再びキスをくれた。それは親愛の情を示す、ただふれあうだけのかわいらしいくちづけだ。だけどスザクはドキドキした。先日覚えた夢精の時の感覚が、背を駆け登って行くのを感じた。
「もう一回」
「も、もういいだろ」
ねだるように繰り返すスザクに、ルルーシュは頬を赤くして顔を離した。スザクは、ちぇ、と思いながらも、ルルーシュの瞳を見て改めてささやく。
「俺はおまえを守るよ」
「僕じゃなくてナナリー」
幸せな気持ちで言ったスザクの言葉を、ルルーシュは顔を赤くしながらも訂正する。スザクは訂正されても笑んだままで、ルルーシュの言葉をさらに訂正して言った。
「うん、ナナリーとおまえを守るよ」
「うん…」
スザクの言葉に、ルルーシュもうなずいた。そっと伏せられた目にぞくぞくして、今度はスザクの方から顔を寄せる
ルルーシュもそっと顔を上げて、自然と二人のくちびるが重なった。誓約のキス。永遠を誓う婚姻のそれにも似た、それはとても幸福な誓いだった。
幼い、けれど真摯な誓い。それは絶対に破られることのない神聖な儀式だった。約束はずっと守られ、そして三人はずっと一緒に大人へと変化して行くはずだった。
けれど幼い、うつくしい日々はいつか終わりを告げる。約束をそのままにして。
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