愛人契約2







 ことのおこりは5年前にさかのぼる。
 自分の能力の減退を悟った虎徹は上司や社長に申し入れ、ヒーローを引退することになった。もちろんバーナビーともちゃんと話した上でのことだった。
 コンビを組んで人気が出てきた矢先の話だ。引退を惜しまれはしたが、ことがことだけに上も引き止めるわけにもいかず、虎徹は円満にヒーローをやめることとなった。派手なセレモニーなども要らないと言ったから、虎徹はシーズンの終了を待って引退までの日々を消化しているような状態だった。
 そんなある日のこと、虎徹は社長であるマーベリックに呼び出された。それも仕事中ではなく退社しようとしていたところを『個人的に』、そしてバーナビーに見つからないようにと言う注釈つきで。
 不審に思いながらも社長室を訪ねていった虎徹に、マーベリックは手ずからコーヒーを淹れ、彼をソファに座らせて、その前にあるテーブルにぱさりとなにか書類を置いた。虎徹はその書類に手を伸ばさぬままさっと視線を走らせたが、所々にあるバーナビーと自分の写真でその内容を悟る。
 写真は、見えている分はどうということもないものだった。ブロンズのマーケットを二人で歩いている写真。バーナビーが対外的には見せないようなやわらかい笑みで虎徹を見ている以外には、別段おかしな写真ではない。それから、バーナビーが虎徹の家に入っていく写真。逆に虎徹がバーナビーのマンションのエントランスをくぐる写真。
 バディとしてまったく不自然な写真ではない。それでも虎徹は、その書類をめくらないまま内容を察した。マーベリックがどういう意図で彼を呼んだのかも。
「君とバーナビーは恋人関係にあるね?」
 マーベリックは静かな声で言った。問い掛けの形をとってはいたが、それは確認ですらない。彼は調書ですべてを知っているのだろう。答える必要性を感じずに、また、なんと返していいかわからずに虎徹は黙り込む。
 すみませんと謝ればよかっただろうか。あいつはちょっと気の迷いを起こしているだけで、とバーナビーのために言い訳してやるべきだっただろうか。ファイヤーエンブレムがヒーローとして当たり前に受け入れられているように、シュテルンビルトでは同性愛はおかしなことではなかった。それでもそれは『自分たちとは違う』特異なものだったし、上流階級の人間にとっては致命的な欠陥だ。ファイヤーエンブレム…ネイサン・シーモアは名門の出だが、彼が一族の間でつまはじきにされていることを虎徹も知っている。
 バーナビーの親代わりであるマーベリックとしては、彼が同性と恋愛関係にあるというのは認めがたいことだっただろう。もしかしたら虎徹の方が誘惑したと思っているかも知れない。そう思ったけれど、虎徹を見るマーベリックの目には非難の色は見当たらなかった。
「私はバーナビーの両親とは友人同士だった。自分たちになにかあったら彼のことを頼む、と託されていたのだよ。私は親代わりとして彼を育ててきたつもりだ。私も忙しく充分に手をかけてやれたとは言えないが、バーナビーは優秀に育ってくれた。ヒーローとしてだけではない。私のような経営者の立場に立っても、きっと彼はその才能を発揮するだろう」
 ある程度予想通りのことをマーベリックは言う。けれどセリフの後半の意図が読めなくて、虎徹は無言で彼を見た。それにマーベリックは静かな笑みを浮かべて言ったのだ。
「私はアポロンメディアを彼に譲ろうと思っている」
「───会社を!?」
 予想外の言葉に、思わずやや大きな声が出た。社員同士が全員顔見知りのような小さな会社ではないのだ。会社を社長の一存で誰かに譲ることなどできるわけがない。それも血のつながりのない相手になど。
 そう思った虎徹の表情を読んだように、マーベリックは軽く手を振って言葉を続ける。
「もちろん会社は私の私物ではない。好き勝手できるわけではないがね。しかし私の指名と、なによりバーナビーは我が社の誇る優秀なヒーローだ。シュテルンビルトを救った英雄でもある。株主の承認はおりるだろう」
「ああ、そう……そうですね」
 そうか、と思う。バーナビーは英雄なのだ。そして他の会社ならいざ知らず、マーベリックの譲ろうとしているのはアポロンメディア…ある意味ヒーローを育て、その舞台のすべてを担っている会社だ。株主も当然ヒーローに関心のある者ばかりで…確かにマーベリックの言うように、それは容易なことのように思われた。それに、バーナビーは血筋も確かだ。彼が親から相続した個人資産もかなりのものだと聞いている。パーティーの席でも、ヒーローとしてだけではなく『ブルックス家』の人間として声をかけられることもままあった。
 そう…バーナビーと虎徹では立場が違うのだ。バーナビーは銀のスプーンをくわえて生まれてきて、両親を殺されるという悲劇にあいながらも、曲がることなく優秀に成長したエリートだ。彼がアポロンメディアの社長に就任するという将来も容易に想像できた。彼は社長業もそつなくこなすだろう。最初は『英雄バーナビー』の顔を象徴として利用されるだけだとしても、いずれ彼はその立場を自分のものとしていくに違いなかった。
 輝かしいバーナビーの前途。それを想像して虎徹は自分の置かれた立場をきっちりと自覚する。ずっと思ってはいた。バーナビーとの関係が始まった最初から、そうなることを虎徹は考え続けていた。けれどそれはどこか遠い日のことのように、現実感を持たなかったけれど。
「バーナビーに男の恋人がいるのは困るのだよ。彼の将来的に…わかるね」
 すでに虎徹が理解していることを、あえて確認するようにマーベリックは言う。そしてゆっくりと、さらに虎徹を追いつめる言葉を続けた。
「彼には縁談が持ち上がっている。スバイエ銀行頭取のお嬢さんだ。親子共々『英雄バーナビー』の大ファンでね。彼がアポロンメディアを継ぐなら、ということもあって非常に乗り気なんだ」
「それは…いいお話ですね」
 スバイエ銀行といえばシュテルンビルト一の銀行だ。市内に留まらず、世界的にも有数の名門銀行のひとつ。その頭取ともなれば家柄も確かで、おそらくその娘は箱入り娘としてきっちり教育されているだろう。アポロンメディアの今後の躍進にも一役買うことは明白だった。メディアという不安定なものを売る会社には、堅実な後ろ盾は強力なものだ。
「バーナビーと別れて欲しい」
「────」
 ようやく切り出されたその言葉に虎徹は返事をしなかった。この部屋に入った時点でもはや結論はくだされていて、虎徹にはそれにあらがう資格も意志もなかった。だったら返事をしなくても同じだ。もう結果は出ている。あとはただそれをどんな風に行なうか、という細かい決めごとがあるだけだった。
「バーナビーの方が君に執着しているというのは、調査からもわかっている。彼はずっと復讐のために生きてきたから…年の離れた君にやさしく受け入れて貰えて、有頂天になっているのだろうね」
 君が悪いわけではない、とマーベリックはその姿勢を崩さない。そうされることで虎徹は余計に居心地が悪くなる。自分は悪くない───本当に?確かに恋人になって欲しいとしつこく迫ってきたのはバーナビーの方だ。虎徹は彼の熱にほだされてつき合い始めたに過ぎない。けれどそれは虎徹が彼より十以上年上で娘もいる、というその立場からそうなっただけではなかっただろうか。
 虎徹はバーナビーの告白を受け入れるという形で彼とつきあい始めた。けれどそれはけして一方的なものではなかった。虎徹はたしかにバーナビーを愛していた。彼の将来のためにならないと思いながらも、離れてやることができなかったほどに。
「ただ別れを切り出しただけではバーナビーは納得しないかもしれない。だから、ワイルドタイガー、君にはヒーローをやめたあと姿を消して欲しいんだよ」
 そう言ってマーベリックが差し出してきたのは、金額が書き込まれた小切手だった。虎徹はそれを見て、小切手って初めて見たな、とだけ思った。金額は目に入ってきたけれど、咄嗟に桁がわからない。そして彼は数字を把握しないまま、それから目を反らした。
「……わかりました」
「そうか、わかってくれたか」
 マーベリックはほっとしたようにそう言った。ごねられることも想定していたのだろう。バーナビーに隠してことを運ぼうとする以上、虎徹の同意がなければ実行に移すのは無理なのだ。ある意味マーベリックと虎徹は共犯者だった。バーナビーの将来を守るための…彼の幸福を祈って秘密裏に行動する共犯者。
 だから虎徹は差し出された紙片を指先でそっと押し返した。
「けれどこれは要りません。もともと俺はいずれあいつとは別れるつもりでいました。姿を隠すというのは多少面倒ですが、いつかそうしようと思っていたことを実行するに過ぎない。……むしろ俺はあなたに感謝しています。人に言われでもしなければ、俺はあいつと別れられなかったでしょうから」
 小切手を押し返しながら虎徹が言った言葉に、マーベリックはなんとも言えない表情を見せた。彼の心が手に取るようにわかってかえって痛い。それは父親の感情だ。虎徹の中にもあるもの。バーナビーをただ甘やかして望むものすべてを与えてやりたいと思う気持ちと、それではだめなのだと手厳しく扱おうとする気持ち。
 父親として、きっと後者が正しいのだろうけれど。
「………退職金に色をつけておくことにするよ」
「それは」
「気にしないでくれたまえ。ヒーロー・ワイルドタイガーの引退を、私も残念に思っているというだけのことなのだから」
 おだやかにほほえんで言われた言葉に虎徹は黙って目礼した。そして無言のまま立ち上がり、失礼しますとだけ言い置いて社長室を出る。マーベリックと彼は会うことはもうないだろう。セレモニーも行なわず引退するワイルドタイガーは、その後そっと消息を絶つ。行き先を世話してもらう必要はあるかもしれなかったが、おそらくロイズにでも言えば事足りるはずだった。
 あっけない幕切れだ。ヒーロー引退と共に虎徹はバーナビーの前から姿を消す。別れを口にする必要もない。むしろ口にしてはいけないのだ。それを言ってしまったら、あの一途な青年はどうして、とすがりついてくるだろうから。
「さよなら、バニー」
 虎徹はまだ別れてもいない男にむかってひっそりと訣別の言葉を吐くと、人気のない夜の会社の廊下を静かに歩いた。自分がこの時小切手を受け取るのを拒否したことを、後に後悔することになるとは思いもしないまま。






 虎徹はもちろん引退までの間、それからもバーナビーと会い続けていた。
 会社に行けば顔を合わせるのだし、別れるとも言っていない以上、食事や家に誘われて断るのもおかしな話だ。今まで通りプライベートでも一緒に過ごしていたし、時に虎徹の方から誘いもした。
 不自然にならないように、すべて今まで通りに過ごして、「ヒーローと会社をやめてしまうだけ。仕事はシュテルンビルトで探すし、引っ越したりもしない」と言ってバーナビーを納得させていた。少し一緒にいる時間が減るだけでなにも変わらない。バーナビーと虎徹は変わらず恋人同士だし、時間が合えばいつだって会うことができる…とそんな風に。
 だからキスもセックスもなにも拒まなかった。むしろバーナビーの若さに任せたそれを今まである程度は拒んでいたのに、虎徹はそのすべてを受け入れていた。それは悟らせないように…というよりは、虎徹がバーナビーと過ごす残りの時間を惜しんでいたからだ。
 バーナビーが欲しがってくれるなら、いまのうちにいくらでも与えたかった。あとわずかの間、少しでも多く彼を感じていたかった。覚えていたかった。きっとバーナビーは忘れてしまうだろうから。若くうつくしい女性と未来を築いて、こんなおじさんのことなどすぐに記憶のすみに追いやってしまうだろうから。
(そうされるのが正しい)
(過去の記憶として忘れられていくのが)
 一日一日、大切な残り時間は過ぎて行った。シーズンが終わり、バーナビーが再びキングオブヒーロになったセレモニーも終えると、いよいよ虎徹の役目は終了する。事後処理を終え、最後に会社に出社したその夜、虎徹はバーナビーの部屋を訪れた。
 バーナビーには当然言ってはいなかったが、すでに虎徹の部屋は空だ。必要な荷物はすべて引っ越し先の街に送り、もう部屋の鍵も返してしまった。あとは虎徹が身ひとつでこの街を出て行くだけだった。
 最後の夜、ただ虎徹が会社をやめるだけだと信じているバーナビーと共に、彼の部屋でしんみりと酒を飲んだ。もう見慣れたはずのバーナビーの部屋からの夜景…十数年自分が守り続けてきたシュテルンビルトの街を見つめて、虎徹は胸の痛みを酒で呑み込む。
 床に座ってぼんやりと夜景を見ていた虎徹の肩に、隣で同じように床で酒を飲んでいたバーナビーがそっと手を伸ばしてきた。
「明日から会社に行ってもあなたがいないなんて、へんな感じがする」
「なんだよ、さみしいか?」
「……さみしいです」
 素直に感情を口にする、甘えたバーナビーのさまに虎徹はくしゃくしゃとその髪をなでてやる。いつもは子供扱いすると怒るのに、バーナビーは目を細めてそれを受け入れる。酔っているのかもしれない。それとも、本当にさみしくてむしろ子供のように甘えたいのか。
 さみしいです、とバーナビーはもう一度言って、それから顔を上げてややきっぱりとした口調で続ける。
「でも僕、一人でもちゃんとがんばります。ヒーローとしてやるべきことはあなたにたくさん教えてもらった。だからあなたの後輩として、あなたの意志をちゃんと継いでいきたい」
「なんだよ…照れるじゃねえか」
「まあ、僕はあなたみたいに物を壊したりせずに人を助けますけどね」
「感動してたらそれかよ!」
 バーナビーの言葉がくすぐったくて笑うと、にやりと笑みを返された。かわいい、かっこいい、男くさい、かわいい。虎徹のバディとしての、後輩としての、そして恋人としての顔が入り交じった笑み。
 この青年がこんな顔をするようになったのは、自分が理由だという自負がある。正直誰かに渡してしまうのは悔しかったけれど、こんなに立派になった男を送り出せるのだからいいのだと思いたい。それは子供を育て上げた親のような心境だっただろうか。苦しくて苦しくていまにも泣き出しそうだけれど、きっと虎徹は楓の結婚式でもこんな風になるのだろう。
「次の仕事は決めてないんですよね?」
「ああ、しばらくはゆっくりするよ。一度田舎の方にも顏出そうと思うし」
 おだやかに問い掛けられて、ほっとしながら虎徹は暢気な声で答えた。黙ってバーナビーを見ていたら泣いてしまいそうだ。今日はどうでもいいような話をずっと続けていたい。
「こないだ有給使って行ってたじゃないですか」
「まあな。でも楓に会いたいからなー」
 そう言って虎徹は肩をすくめた。脳裏にひと月ほど前のことが思い起こされる。
 虎徹は有休消化の間に、一度オリエンタルタウンに戻ってこれからのことを話しあっていた。この先しばらく姿を隠さなければならないから会えなくなる、と言った虎徹に、母親は困惑した顔を見せ、兄は『それはどうしてもそうしなくちゃならないんだな?』と念を押し、そして楓は『そんなのはいや!』と叫んだ。
 楓はさらに、『どうしてもお父さんがどこかにいかなくちゃいけないなら、私もついていく!』と言ったのだ。ずっと放っておいた上に勝手なことを言う自分についてきてくれようとするなんて思ってもみなくて、虎徹はぽかんとしてしまった。その表情を見てますます楓は怒った。
『楓、これはただ俺のわがままなんだ。事情はなくはないけど、俺が勝手にすることだ。おまえが犠牲になることはないよ』
『犠牲とかじゃなくて…私がついていったら駄目なの?ヒーローやってた時みたいに、まだ私に見せたくないことがあるの?そういう仕事をするの?』
『仕事はまだ決めてないけど』
『じゃあいいでしょう。私はお父さんについてく。駄目だって言ってもこれからは一緒に暮らしてもらうんだから!』
 そう言いきって、楓は憤然とした顔でその場から立ち去った。すぐに部屋の中からガタゴトと音がし出して、なにをしているのかと思えば荷物の整理を始めていた。虎徹が慌てて、そこまで急にいなくなったりしないと言うと、じゃあいつ行くの?ちゃんと教えてよね!と喧嘩を売るように虎徹を睨みつけて言ったのだった。
 そこにはもちろん父親と離れたくないという思いもあっただろうけれど、それだけではない感じがした。そして後で母親に聞いたところによると、楓は能力を制御できずにいただめ、NEXTであることが周りにバレてしまったらしい。シュテルンビルトとは違い、オリエンタルタウンは閉鎖的な社会だ。NEXTという異質なものを彼らは拒む。それはさすがに大人同士であればあからさまなものではなかったが、子供であれば残酷な差別があってもおかしくはない。実際虎徹も、NEXTであることが周りに知られたために、一人オリエンタルタウンを離れてシュテルンビルトの高校にいくことになったのだから。
 楓が虎徹について来たがったのは、そういう理由もあるのかもしれなかった。
 ずっと一緒に過ごしてきた友人や同じ学校の人間に差別されて、あれほどべったりだった祖母と離れてまで虎徹について来ようとする楓の内心を思うと胸が痛んだ。これからは自分がずっと一緒にいて、そして守ってやろうと心に誓う。なにがあっても、どんなことからも娘を守る。バーナビーを置き去りにしようとしている虎徹は、そう決意を新たにした。
 それはある意味代償行為だったのかもしれない。そして自分の一番はやはり娘なのだから、とそう理由をつけたかったのかもしれない。だから余計にこれからは楓のことを大事にしたかった。父親の勝手な感情の吐き出しどころになる彼女はかわいそうだ。だからせいいっぱい愛してやりたいと思った。
「……あなたの田舎にいつか行ってみたいな」
 隣からやわらかな声が聞えて、もの思いに沈んでいた虎徹はハッと我に返った。視線をあげればバーナビーははにかんだような笑みを浮かべて、フルートグラスを傾けながら夜景の向こうを見通すような目をしていた。
「きっといいところなんでしょうね」
「なーんもねえぞー」
 虎徹の育った土地に行ってみたい、というその言葉の意味がわからないわけではない。だからこそ虎徹は、なんでもないことのように笑って手を振った。
「緑が濃くて、水が綺麗で、静かで…でも店もなんもねえし、娯楽なんかほとんどない。都会育ちのバニーちゃんなんか退屈しちまうよ」
「それでもいいです。そういう綺麗なところでぼんやりしたいです」
 ほほえんだ顔はどこかうっとりと上気してた。バーナビーの脳裏にはいまどんなものが見えているのだろう。オリエンタルタウンの静かな森の中を虎徹と二人で歩くところ?虎徹の家に行って、彼の娘や家族と会うところ?きっとそれは綺麗で、やわらかくて、痛いものなどなにもない未来なのだろう。
 『いつか』はいつか叶うと信じている。スタートがあってゴールがある…そんな当然の結果のように。ゴールではない終わりがあることをバーナビーは知らない。いや、知っていてもいま彼はそれを見ていない。しあわせでしあわせでしあわせな彼は、自分が明日その幸福に裏切られることをまだ知らないから。
「そうだな…いつか連れてってやるよ」
 虎徹はさらりと嘘をついた。いつか、は絶対に来ない。虎徹にはバーナビーを自分の田舎に連れていく気なんかない。
 だけど今日の自分は全部が嘘だから。明日には消えてしまう時間なのだから、せめていまだけは嘘でもいい、約束をやりたかった。たとえそうすることで、余計にバーナビーを傷つけてしまうとしても。
「虎徹さん」
 バーナビーは嬉しそうにほほえんでグラスを置くと、虎徹の肩を引き寄せて小さくキスをした。くちびるを離して虎徹をみて、また嬉しそうに笑う。
 しあわせです、と顔に書いてあるような表情。実際バーナビーは幸福の絶頂にいるのだろう。復讐を終えて、世界が開けて、こんなおじさん相手でも初めての恋をしてそれが成就して。
(なあ、だけどバニー、その幸福は永遠には続かない)
 バーナビーの笑顔がまぶしくて、余計に虎徹の胸は痛む。だからこそこの青年を置いていかなければならないのだと強く思う。
(いつかおまえは気付くだろう。こんなおっさんよりおまえにふさわしい相手がいることを。俺が与えているものなんて、おまえが望めば誰からでも与えてもらえるってことを)
(バニー、俺はおまえの目を開けてやった。そしてそれを自分の方にだけ向けさせてしまった。だけどもうおまえは他のものを見るべきなんだ。おまえが本来もつべきだったもの。二十一年前奪われていまようやく返されようとしているものを……)
「バニー」
 虎徹は今度は自分の方からバーナビーにキスをして、それから彼の目を見つめて名を呼んだ。声はかすれている。息苦しくてうまく声が出なかった。吐息がかかる距離で彼を見て、そっと目を細める。
「はい?」
「したい」
「……珍しいですね、あなたから」
 直截な誘いの言葉を口にすると、バーナビーはわずかに目を見張って言う。躊躇する彼がじれったくて、虎徹はバーナビーの首に腕を絡めた。
「ちょっとそういう気分なんだよ」
「……シャワー浴びますか」
「すぐしたい」
 バーナビーの問い掛けに虎徹は短く答え、だめか?と言うようにバーナビーを見返す。いつでもシャワーを浴びてからしたがるのは虎徹の方だ。どうにも自分の体臭やらなんやらが気になって仕方がないのだが、今日はそんな時間も惜しかった。
 自分でもわかるくらい欲情した顔を彼に向けた虎徹に、バーナビーがごくりと息を呑む。ベッドに行きましょう、とささやいて、バーナビーは虎徹の腕を引いて床から立ち上がった。
 寝室に入ると、虎徹はバーナビーをドンっとベッドに押しやって、ベッドの上に足を投げ出して座る形になった彼の足から、面倒くさいブーツを脱がしてやった。いつもと違って積極的で、いままでしたこともないそんなサービスをする虎徹にバーナビーは目を白黒させる。
 きょとんとした顔を眺めて、ああ本当にこいつかわいいな、と虎徹は思う。だけどかわいいこの男はセックスの時にはたまらなく男くさい雄の顔をする。飢えた獣のようなそんな顔を見たことがあるのは、きっと今のところ虎徹だけだ。そのことに強い満足感を覚えながら、この先は違うのだと思えば胸が痛んだ。
「こ…てつさん?」
 さっさと自分の服は脱いでしまって、全裸でベッドの上に乗った。まだ服を身につけたままのバーナビーの脚の間に陣取って、急いたしぐさで彼のズボンの前をくつろげる。そのまま下着の中に手を突っ込んで引きずり出したものに顔を寄せれば、戸惑った声が落ちてきた。
「どうしたんですか?いつも、こんなこと自分からはしてくれないじゃないですか」
「そういう気分だ、って言っただろ」
「んっ……」
 吐息を吹きかけるようにしてささやいてから、ちゅっ、と側面に吸い付くと、綺麗なくちびるからなまめかしい声が漏れた。バーナビーはまだ少し戸惑った顔をしていたけれど、濡れた目で虎徹を見下ろして、先をうながすように髪にふれてくる。
 不審がられたかと思ったけれど、バーナビーから見ても虎徹は今日、長年やってきたヒーローをやめたところなのだ。そしてバーナビーとバディでもなくなる。少しくらい態度がおかしくても、そのせいだと納得されるだろう。
「ふ……」
 虎徹は胸の痛みを振りきるように目を伏せると、手の中のものをかわいがってやることに没頭する。
 手で支えながら裏筋を舐め、カリのとこにたどりついてくびれを丁寧に舌先でなぞる。手で握って軽くこすりあげながら舌を先端に当ててぐりぐりと動かすと、髪をなでるバーナビーの指の動きがせわしなくなった。そのまま先端の部分を浅く口に入れ、くちびるで刺激するように何度か出し入れしてから、虎徹は唐突にそれから口を離して言った。
「なあ、バニー、ジェル取って」
「え、あ…はい……」
 とろんとした目で虎徹を見下ろしていたバーナビーは、咄嗟になにを言われたかわからない風情で、それでもサイドボードの引き出しに手を伸ばして目的のものを取った。思考がついていってなさそうなのについでにゴムを出したのは、もはや習性なのだろうか。思わず小さく笑ってしまう。
 虎徹はバーナビーからジェルを受け取ると、左手にそれを出す。少しだけ右手を濡らしてから、左手は自分の後ろに回した。
「ん」
 全裸で四つんばいになってバーナビーの脚の間に顔を埋めたまま、虎徹は左手で自分の尻のはざまにふれた。入口をローションで濡らしてから、ぐっと指を突き入れる。思っていたより指はあっさりと中に入った。これならそれほど慣らさなくても大丈夫だろうか。
 虎徹のそのしぐさを見て、バーナビーが驚いたように声を上げる。
「虎徹さん…僕がするのに」
「ん、すっと、ふぁめてやれないだろ」
「咥えたまましゃべらないでっ……その、ならシックスナインとか」
 恥じらうようにそう言ったのは、まさかやってみたかったのだろうか。そういえばシックスナインはやったことがない。虎徹が彼に対してなにかするより先に、バーナビーの方が虎徹をむさぼるようにふれてくるからだ。
 やりたいならしてやってもいいかな、と思ったけれど、虎徹の方が我慢できそうになかった。ゆるく首を振って、バーナビーの提案を却下する。
「おまえはしつこいから駄目」
「しつこいって……っ…んんっ、それいい……」
 ぬくっ、と半ばまでをふくんだまま舌を動かしてくびれのあたりを舐める。舌はその辺りに添わせたまま、ぐぷぐぷと音をたてて奥まで呑み込んで出し入れする。きゅっと吸い上げてやれば、口の中のそれがぶわっと膨らむのがわかった。ぐっとバーナビーの脚に力が入るのを感じて、虎徹はその根元を指でいましめる。
「っ……」
「まだイクなよ、バニー」
「ちょっ…と」
 もう少しでいきそうなところを止められて、憤然とした顔でバーナビーが見下ろしてくる。欲望に赤くなった顔が色っぽい。まあイク所を止められてつらそうだったけれど。
「ダメ。まだダメ」
「だって…一回、いっといたほうが、あなたにも負担をかけずに…」
「いやだ、いますぐ欲しい。……何回してもいいから」
 熱っぽい声でそう言って、虎徹はバーナビーのものから顔をあげると、体を起こして彼の膝の上にのしかかった。自分で後ろをほぐしていた指を引き抜き、ジェルに濡れたそこをバーナビーのものに押し当てる。浅く挿入すると、今度こそ本気で焦ったようにバーナビーは手をばたつかせた。
「待って、本当に待ってください!ゴムを…」
「いい。中で出していいから」
「うわっ…ちょっ、虎徹さん……本当にどうして───」
「飢えてる、んだ…」
 もがいて彼を押し返そうとするバーナビーを押さえ込んで、虎徹は少しずつ腰を降ろしていった。自分で慣らしはしたがいつもより充分にほぐしていないそこは狭く、うまくバーナビーを呑み込んでいかない。けれどこじ開けられる感じがして、バーナビーの形がいつもよりはっきりとわかった。くびれや、ふくらんでいる場所が内壁をこする。
「あっ……く」
「まだ…きつい」
 苦しさにしなう虎徹の背を抱いて、バーナビーがささやいた。締めつけられているバーナビーの方が苦痛を感じてるんじゃないかと心配になって、虎徹は彼の顔をのぞき込んで問い掛けた。
「痛いか?」
「僕は平気です…けど」
 あなたきつんじゃないですか、と心配そうに聞いてくるバーナビーに、虎徹はふるふると首を振った。
「すごい…おまえが入ってくるって感じが、して……あっ、あっ……!」
「虎徹さん…あっ、ちょっと待って……うわっ…あっ───」
「っ……」
 奥まで呑み込んだところで、バーナビーの下腹がびくびくとふるえた。中が熱くてよくわからなかったけれど、虎徹の中にあるものもひくりとふるえているところをみるとイッたのだろう。バーナビーは彼らしくない悪態をついて虎徹の体を抱きしめた。
「口でしてた時もういきそうだったんだから、しょーがねーだろ」
「っ……あなたがいやらしいこと言うから」
 いやらしいこととはどれだろう、と思ったけれど、そんなことを考えるよりも目の前の愛しい青年にかまいたくなって、虎徹はバーナビーの前髪をかき上げると、理知的なその額に音をたててキスをした。
「若いからすぐだろう?」
「ん…でもちょっと待ってください」
 バーナビーは虎徹を膝に乗せたまま、まだ脱いでいなかったシャツに手をかけて一気にそれを脱いだ。下も脱ごうとしたようだったけれど、虎徹がどこうとしないのを見ると苦笑してあきらめた。そしてあまやかすように虎徹の背中をやさしく抱く。
「バニー…」
 虎徹は中にバーナビーを入れたまま彼にすがりついて、髪に首筋になめらかな背中に、ふれられるところ全部めちゃくちゃにふれた。たくさんさわりたかった。バーナビーの形を全部覚えておきたかった。その肌の感触も熱も鼓動も吐息も…全部。
 鼻先にキスをすると、引き寄せられてくちびるを奪われた。キスはすぐに深く熱いものになる。くちゅ、くちゅ、と音をたてて舌を絡めて、口腔全部を舐めつくしあった。呑み込めなかった唾液が二人の間を落ちていったけれど、淫猥なその様を見る余裕すらなかった。
「んっ……」
 体内のバーナビーのものがぐんぐん力を取り戻すのがわかる。軽く腰をゆさぶるとそれが硬くなっているのがはっきりと感じ取れて、たまらなくなって虎徹はバーナビーに強くすがりついた。そのまま手を滑らせて背中全部を愛撫する。
 鼻先がふれあうほど近くで、バーナビーはうっとりと息を吐いて言った。
「虎徹さん……僕もあなたにさわりたいです」
「ん…さわってくれ。俺は動くから…」
 言って、虎徹は宣言通り自分から腰を動かした。上に乗ったことはほとんどなかったが、それでもどういう時にバーナビーが気持ちよさそうにするかは知っている。ゆるゆると腰を揺らしてバーナビーのものが完全に勃ちあがっているのを確かめると、一気に腰の動きを激しくした。彼がいつも腰を打ち付けてくるリズムで腰を揺らし、うごめかせる。それに合わせるように意識して中を締めつけると、バーナビーは慌てたように虎徹の腰をつかんだ。
「虎徹さん、ちょっとあなたなにして…」
「ん?気持ちいい?」
「いいですけど…よ、よすぎてっ……」
 ハアハアハア、と獣のように息を荒げて、とろとろに溶けた顔をしながら、バーナビーは少し悔しそうだ。イニシアチブをとれたことを感じて、虎徹は思わずにやりと笑ってくちびるを舐めた。しかしバーナビーは一瞬ムッとした顔をすると、ふっと笑って虎徹の胸元にくちびるを寄せた。
「あっ……!」
 勃ちあがった胸先の小さな粒をくちびるで挟まれ、舌先でぬるんと舐められて声が上がった。バーナビーはすぐにそこからくちびるを離すと、今度は反対側の乳首に同じことをする。
「ん、あ……バニー、そこ…」
 先に舐められた方はバーナビーの指先で強めにいじられる。唾液にぬれたそこは渇いている時より敏感で、刺激をつよく感じた。片方を指で強く、片方をくちびると舌でやわやわと嬲られて、じんっとそこから熱いものが広がっていくようだ。
「気持ちいいですか?」
 先ほど虎徹が聞いたおかえしのようにバーナビーが聞いてくる。言いながら指とくちびるを交換されて、先ほどまでと違う刺激にまたびくびくと体が跳ねた。
「うん、いい……じんじんして。おまえの手、いい……」
「舌と指とどっちがいいですか?」
「どっちも…いい……ぬるぬる舐められるのも、指でつままれるのも…」
「つまむ?こう…?」
「ひゃんっ…!」
 いきなりぎゅうっとつぶれそうなほど強くつままれて、馬鹿みたいな声が漏れた。あまりのことにカアッとなって、思わず両手でバーナビーの耳をふさいでしまう。そんなことで聞えなくなるとも思えなかったが、いくらなんでもなんの対処もせず中年男のそんな声を聞かせるのは抵抗がある。
「虎徹さん。そんなことしたら、あなたの声が聞こえません」
「聞かなくていい!」
「聞きたい…あなたの声」
 虎徹が叫ぶと、バーナビーは甘い声でねだってくる。
 言葉遊びだ。返事を返しているのだから、バーナビーは結局虎徹の声が聞こえている。ただバーナビーはねだっているのだ。甘えて、ねだって、そしてそれを受け入れられるのを待っている。期待した表情で見上げられたまま乳首をいじられて、腰が揺れた。自分で揺らしたそれで強い刺激を感じてまた声が漏れてしまいそうだ。
 恥ずかしい、みっともない、と思いながらも、それこそが見たいと思われているのだと知って、ぞくぞくと感じた。望まれたものは全部渡したい。見せろと言うなら腹の中まで見せてやりたい。今日だけは───今日だけは。
 虎徹はふるえる手をバーナビーの耳から離すと、ぎゅうっとその肩にすがりついて彼の耳元にくちびるを寄せた。
「バニー…」
 ささやきに、バーナビーの肩がふるえた。虎徹は自分の声が彼に影響を及ぼすのに気を良くしたけれど、次の瞬間それどころではなくなる
「ンッ……あ、あっ……!」
 乳首をぎゅうっと強くつかまれ、逆のそれにはちゅぱちゅぱと吸い付かれる。歯を立てられてびくんっと腰が跳ねた。自分の内側がひくひくとふるえるのがわかる。気持ちよくて、よすぎて、指先までがしびれたみたいになった。
「ばに…強い、それ…んんっ……!」
「ここ、すごい…赤い……腫れたみたいになってますよ。こんなにおっきくなって。……かわいい」
「んあっ…も、いじんな。痛い……」
「どうしてです?中もひくひくしてて気持ちよさそうなのに…僕もすごくいいですよ」
「っ……この野郎」
 イニシアチブを取り返されて、思わず反抗心が湧く。甘やかしてやろうと思ったばかりなのに、いじめてやりたいと思う。虎徹は自分の胸元をいじるバーナビーの手の邪魔をするようにぎゅっと彼の肩に抱きつくと、膝を起こして激しく腰をふりたてた。
「っ……虎徹さん…いきなり───!」
「ふ…あっ、ああっ……」
 まいったか、とかそういうくだらないことを口にしようとしたけれど、言葉は形にならずにただの嬌声にかわる。バーナビーも虎徹の胸元から手を離して彼の腰をつかむと、思いきり突き上げてきた。バーナビーのものが奥をついて、虎徹は腰を揺らしながら胸を反らせる。
「はっ……あ……イイ…バニーの、でかくて────」
「虎徹さん…こてつさん……今日、あなたすごくいやらしい」
 いやらしい、とたどたどしい口調で繰り返して、バーナビーは食らいつくような目で虎徹を見上げてくる。そのこどものような口調とは裏腹の雄の視線にぞくぞくした。乳首にくちびるを寄せようとして激しい動きに失敗したのか、肩に鎖骨の上に、何度も食いつかれる。
「跡…つけていいですか、虎徹さん。あなたのココに…もう誰も見ないからいいでしょう?ねえ…」
「あっ、ダメ……いい、ばにっ……」
「どっちですか」
 言いながら腰を突き上げて、結局バーナビーは虎徹の首筋に吸い付いた。軽く歯を押し当てられてズクンっと突き上げるものを感じた。獣に喉元に食いつかれたようだ。食らわれて、そしてマーキングされる。
「あっ……あ、いい……ばにぃ!もう、い、く───」
「こてつさんっ……!」
 バーナビーの腹にこすれていたものがびくんとふるえたのがわかった。促すように大きく突き上げられて、虎徹はバーナビーの髪をつかむようにして達した。虎徹のものがバーナビーの腹を汚し、遅れてバーナビーも虎徹の中に熱を吐き出す。
「あ───は、あ……」
 びくんびくんと何度も下腹がふるえた。
 自分で腰を振り立てて快感をむさぼっていたせいで、イッたあと酸欠のようになって意識がついていかない。虎徹はバーナビーの肩から手を離すと、彼の膝の上でふらふらと揺らいだ。そのままくたりと横にかたむくと、バーナビーの支えも間に合わずに虎徹はシーツの上に転がる。バーナビーのものが抜けたところから、こぽりとなにかがこぼれ落ちるのを感じた。抜かずに二回したのだ。そこからはバーナビーの吐き出したものがいやらしく伝い落ちているのだろう。
 そう思いながら虎徹はのそのそと体を動かしてうつぶせになると、バーナビーのものが伝う腰を持ち上げて、かすれた声で言ったのだ。
「バニー…まだ、もっと────」
 はしたないほどのその誘いかけに、バーナビーが息を呑む音が聞こえた。






終わりの一夜と始まりの一夜
その違いはどこにあるのですか
太陽が幾度もめぐるように
始まりと終わりの区別は曖昧なまま
終わりの次には始まりが、始まりの次には終わりは
永遠に繰り返されるループ

それが終わりであると知らないのならば
それはその人にとっての始まりの一夜なのかもしれない
その先を誰も知らない『なにか』の始まりなのかも知れない



 何度やったのかはもうよくわからなかった。三度目に後ろから獣のようにゆさぶられて達したのは覚えているが、そこから先の記憶が曖昧だ。虎徹は泥のような気だるさと指先まで満たされた感覚を味わいながら、シルクのシーツの上でうとうととまどろんでいた。
 ふと気がつくと、左手に違和感を感じた。誰かが…バーナビーが左手にふれている。控えめに虎徹の左手を握っていたバーナビーは、虎徹が深く眠っていると思ったのか、それをそっと持ち上げた。そしてわざわざカチャリと眼鏡をかけてじっとそれを見る。
「バニー…?」
「あっ、すみません、起こしてしまった」
 不審に思って声をかけると、弾かれたようにバーナビーが顔を上げる。それでも彼は虎徹の手を離しはしなかった。手を取ったまま謝罪の言葉を口にする。
「いいけど……」
 いまいち状況を把握できずに、ぼんやりとしたまま虎徹は答えた。視線をあげればバーナビーが、虎徹の手を握りしめて赤い顔をしている。そして少しうわずった声で尋ねてきた。
「あの…指輪、見せてもらってもいいですか?」
「指輪───?いいよ…ほら」
 そんなことを言われたのは初めてだったけれど、バーナビーの言い方に痛々しい感じはなかったから、虎徹はそっと指輪を外して渡してやる。他人にそれを渡すのなんて初めてかも知れない。その指輪は十一年間ほとんど外されることなく虎徹の指にあった。外すことにまったく抵抗がないわけではなかったが、いまさらバーナビーがその指輪をどうこうするとも思えなかった。
 バーナビーは壊れやすいものでも扱うように慎重に指輪を受け取って、間接照明の薄暗い明かりに照らしてためつすがめつじっと見ていた。シンプルなデザインだからそんなにじっと見るようなものでもないと思うけれど、バーナビーはささやかな指輪の特徴を口にする。
「よく見ると小さいダイヤが入ってるんですね」
「うん。ダイヤは永遠のものだって友恵が…嫁さんが言うからさ。婚約指輪もなかったし、ちょっとがんばったんだよ」
「K&T……」
 指輪の裏側に掘られた文字を読んで、バーナビーはほんの少しだけどこかが痛む顔をした。その顔を見て、指輪を渡してやるべきではなかったかと思ったけれど、バーナビーはすぐにその表情を消すと、指輪をそっと虎徹に返しながら真剣な目を彼に向けてきた。
「虎徹さん」
「うん?」
 指輪を手の中に握らされて真剣な緑の瞳をまっすぐに向けられ、ドキンとしながらそれを見つめ返す。バーナビーは指輪ごと虎徹の手を握りしめたまま、かすれた声で言った。
「いつか、でいいですから…指輪、二つつけてくれませんか?」
 その言葉に虎徹はわずかに目を見開いた。
 セックスの睦言の延長のようにそっとささやかれた言葉。けれどその言葉を口にするのにバーナビーがどれほど緊張しているのかがわかって、虎徹は数秒言葉を失う。なに言ってんのバニーちゃん、指輪二つつけたらヘンじゃねーか、とかそんな風に笑って冗談にしてしまえばいいと思った。だけどできない。きっとそうして笑えば、いま目の前にいる彼が傷ついてしまうから。
 いつか彼を傷つけるとしても、それは明日でいい。明日ならきっと同じこと。すべてがただ嘘だったと、それだけのことになるから。
 それは卑怯な考えだった。あとから思い返して虎徹は何度も思った。彼はバーナビーを傷つけたくなかったのではない。自分が傷つきたくなかったのだ。自分の存在がバーナビーを傷つける瞬間を見たくなかった。自分がいなくなったあと、その行為がどれだけ彼の傷を深くしたか、そんなことを考えもしなかった。
「────考えとく」
 虎徹はそう言って嘘を口にした。『いつか』───絶対に来ないいつか、のことをそうやって約束したのだ。






 翌朝、虎徹は少し早い時間に起き上がってベッドを抜け出した。シャワーを浴びてバーナビーの残滓を洗い流し、身支度をすべて整えてバーナビーの眠る寝室に戻る。いつもならコーヒーを淹れて朝食を作ってやるところだけれど、今日はそれをしない。
 バーナビーを起こしてしまうかもしれなかったし、それに、自分がいなくなった後のこの部屋に自分の影を残したくなかった。
 バーナビーはすうすうと安らかに眠っていた。腕を投げ出しているのは先ほどまで虎徹を抱いて寝ていたからだ。しばらく見ているとのそのそと動いて、その腕は枕を抱え込んだ。金色の髪を乱して無心に眠るバーナビーは天使のようにかわいかった。絵画にして残しておきたいと思うほどだ。
 キスをしたかったけれど起こしてしまう気がして、必死に我慢する。最後だと思えば彼を起こしてでももう一度ふれたかったけれど、ふれればまた同じことになる。どれだけふれても、むさぼっても未練なんて消えるはずもない。満足できないなら同じことだ。
 眠るバーナビーの姿を瞳に焼き付けるように数秒見つめると、虎徹は彼から視線を反らして部屋から出た。後ろを振り返らずにゆっくりと玄関を出ていく。一階まで降りてから備え付けられた各部屋の郵便受けに合鍵を放り込んだ。コンシェルジュにあずけることもできたが、他人を介して鍵を返せばバーナビーが気まずい思いをするかもしれない…そう思ってのことだった。
 マンションを出ると朝の清浄な空気が虎徹を包んだ。秋が深まっていく時期の朝の冷たい空気を胸に吸いこんで、虎徹は駅に向けて歩き出した。バーナビーのマンションからモノレールの駅はすぐ近くだ。
 そして歩きながら携帯を取り出し、駅につくまでにメールを入力する。


おまえが誰かと結婚してしあわせになること。
それが俺の望みだ。


 それだけを入力して送信する。メールが送信できたことを確認すると、虎徹は携帯の電源を切ってカードを抜き、それを駅のごみ箱に捨てた。そしてふところから違う携帯電話を取り出す。それは新しく契約した、まだだれにも番号もアドレスも教えていない携帯だった。
 虎徹はその携帯で、覚えている番号に電話をかけた。1コールで待ちかまえていたように相手が出ると、虎徹は意識して明るい声を出した。
「ああ、楓?いまから迎えに行く。ええっと、おまえあそこだろ?シュテルンビルトのはずれの…うん、わかってるわかってるって!飛行機乗るからな。おまえ怖がって泣くなよ!そうそう、何マイルだっけ…飛行場で朝飯食ってさ……」
 笑ってそう話す自分の頬が濡れていることに虎徹は気付いたけれど、それをぬぐうことはしなかった。あとからあとからこぼれてくる涙をそのままに、虎徹は電話に向かって明るい声で話し続けたのだった。





──────置き去りの心は、どこにいくのか。







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