愛人契約3 虎徹と楓の二人が暮らしはじめたのは、シュテルンビルトから2000マイルも離れた場所にある、日本人が多く住む街だった。そしてNEXTの地位が確保され、むしろNEXT能力者の恩恵にあずかって成り立っている街。 企業の採用にNEXT枠があるほどだ。 NEXT差別のない街、というのは虎徹がマーベリックに、会社を通して自分の住む場所を探して欲しいと頼んだ時つけた唯一の条件だった。そこに日本人が多く住むというのが加わったのは彼の親切心だっただろうか。十人に一人は日本人、二人は中華系というその街で、虎徹と楓は自然と溶け込むことができた。 オリエンタルタウンの日本人の中で暮らしてきた楓にも、それはずいぶんと楽なことだっただろう。もちろん大半は日本人ではないのだが、学校の同じクラスに何人かは同じ風習を持つ人間がいるというのは心強いものだ。それも日本人同士で固まってしまうのではなく、『こういう風習があるんだよ!』と言う時に後押しがあるような、人種と風習の博覧会みたいになるようだった。 虎徹はその街で飲料を運ぶ仕事についた。能力がなくなっても力仕事は得意だったし、それなりに人と接しながらも堅苦しく構える必要がないのは性に合った。稼ぎはたいしたことはなかったけれど、楓と二人で暮らして実家にわずかながら仕送りをする程度であれば充分だった。楓の将来の学費のために、細々と貯金もできたくらいだ。 おだやかな日々だった。なんの波風もない、心をあらぶらせることもない日々。十年もやっていたヒーローの仕事から離れたことはさみしかったが、なにもヒーロースーツを着てテレビの前で活躍することだけがヒーローではない。能力こそなくなっていたが、虎徹は移り住んだ街でも困っている人がいれば全力で助けようとした。 ヒーロー達の活躍はテレビで観た。シュテルンビルトから遠く離れたこの街ではライブ放送はなかったが、NEXTと縁の深い街でみんなヒーローには興味を持っている。放送は数日遅れて流れたし、特番もよく流されていた。小さいがヒーローグッズを専門に扱う店さえあるほどだ。 アントニオとさえ連絡を取らないまま、彼らの消息を一方的に細々と知る。───バーナビーのその後も。 バーナビーはシーズンの最初しばらく姿を見せなかったが、ひと月ほどして復帰した。怪我をしていたことになっていたが、虎徹は少しだけ自分の不在が彼に影響を及ぼしたのではないかと思った。思い上がりかもしれなかったが、実家に連絡を取った時、バーナビーが来たという話を聞いてそれは確信に変わる。 実家の兄は、虎徹は楓と二人で出ていったきりどこにいるのか知らない、と言い張ってくれたらしい。それを信じたかどうかはわからなかったが、実家からたどれない以上、他のだれとも連絡をとっていない虎徹の消息をするすべはない。 バーナビーは虎徹を探すことをあきらめたのだろう。復帰してからの彼は今まで通り…今まで以上にヒーローとして活躍し、次々とポイントをあげた。虎徹がいなくても、コンビなんかじゃなくてもバーナビーは充分活躍できる。むしろ自分は足手まといだったのだと虎徹は思い知った。 一年ほどして、虎徹はヒーロー・バーナビー・ブルックス・Jrの結婚のニュースを聞いた。報道された相手はマーベリックが言っていた女性とは違っていた。バーナビーはマーベリックの敷いた道には乗らなかったのだろうか?と苦笑したけれど、違う相手ということはバーナビー自身が選んだ相手だということだと気付いて、ほっとすると同時に少し胸が痛かった。 バーナビーは虎徹が離れることで、ようやく自分の前にあるものに気付いたのだろう。世界はバーナビーにやさしく、彼はなにをするのもなにを選ぶのも自由だと言うこと。彼を愛することでしあわせを与えてくれるのは、虎徹だけではないということを。 バーナビーが愛することを知ったという事実は純粋に嬉しかった。ようやく彼は自分で幸福をつかめるようになったのだ。虎徹が与えてやれなかった本当の幸せ。結婚して家族を持ち、一緒に家庭を…未来を築いていくこと。 相手はいまシュテルンビルトで人気のあるトップモデルだそうだ。華やかなモデル業界にあって浮いた噂のない女性で、そんな彼女が電撃的に結婚を発表した相手がヒーロー・バーナビーであったことはかなりセンセーショナルなニュースだったようだ。バーナビーはすでに未来のアポロンメディアCEOとしてマーベリックから指名を受け、経営にも携わりはじめていた。 華やかでおめでたい話だった。一点の陰りもない、知人として喜ぶところしかないニュース。 そのニュースを眺めながら虎徹は、もう連絡をとってもいいのかもしれない…と思った。 虎徹と離れてから一年経ったのだ。愛する人も見つけたことだし、バーナビーはきっと落ち着いて、虎徹への特異な気持ちなどもうなくなっているだろう。あれは復讐だけに生きていた自分が、目を開いた瞬間に見たものに捕らわれてしまっただけだと、今ごろ過去のことを恥じているかも知れない。 だから虎徹は、突然連絡を絶ったことをわびて、先輩として結婚おめでとうという言葉を送って、交流を再開してもいいのかもしれない。バーナビーが本当に愛する人を見つけた今、虎徹はただ彼の行く末を案じていたかつての職場の先輩に戻れる。一年経って少し精悍になった彼に会いたかった。自分で結婚相手を見つけて幸福をつかんだ彼に、おめでとうと言ってやりたかった。 連絡を取ればもしかして、結婚式にだって呼んでくれるかもしれない。そうしたら久しぶりにシュテルンビルトに行って、他のヒーローとも会って、バーナビーの前途を笑って祝ってやれる。……そう思うのに。 虎徹は彼に連絡を取ることはできなかった。一年ではまだ早いかも知れない、と思ったわけではない。マーベリックと約束しているのだから、というのも言い訳にすぎない。虎徹はただ、バーナビーにむかってきちんと笑いかけられる自信がなかったのだ。愛する人をみつけ、自分以外の者の手によって幸福をつかんだ彼を、純粋に祝福してやれる気がしなかった。 結婚式の報道はテレビで見た。 バーナビーの妻となった女性は、モデルらしくほっそりとした体形でうつくしく、快活なひとに見えた。純白のドレスに身を包みながら大きく口を開けて笑う姿は清純とは言いがたかったが、神経質なところのあるバーナビーにはこれくらいがふさわしいのかもしれないと思った。おおらかな笑顔と愛情で彼を包んでくれるのだろう。家庭と縁の薄かった彼に帰る場所を与えてくれるひと。 ともかくバーナビーは結婚してしあわせになった。今度こそ本当に虎徹の役割は終った。今後彼はバーナビーに関わることなく、お互いに違う人生を生きていくのだろう。バーナビーはヒーローとして、アポロンメディアの幹部としてすごし、虎徹は彼とは遠く離れた街で一介の労働者として、そして楓の父親として生きていく。その道はもう交わることはない。連絡も取らずにいれば、いずれ風化していくのだろう。 ただ虎徹は、金髪の背が高い男を見かけるとつい目で追ってしまう癖が残った。一度などあまりにもそっくりに見えて後を追いかけてしまったほどだ。 バーナビーがこんなところにいるはずもない。虎徹は彼に行方を知らせていないし、そもそも彼はすでに結婚して自分のことなど忘れてしまっているはずだ。何年もKOHを張り続け、さらにアポロンメディアの経営にまで手を出すようになった彼はあまりにも多忙で、こんなところをふらふらしているはずもなかった。 それは虎徹がバーナビーに会いたいと思うがゆえについた癖だったのだろう。バーナビーの思い出を夢に見るように、虎徹は街中に彼の幻影を見た。何年経っても、ふと金髪を見ると彼を思い出してしまう。バーナビーとは似ていない薄い金色でも、『バニーとは違う』ということで目で追ってしまっていた。他人の髪にふれることなどもはやほとんどないのに、彼の髪の感触を思い出すように指が疼いた。 (忘れろ) (もう会わない) (もうふれたりしない) (だから───) 時折わき起こる体の記憶を押し込めるようにして、数年が経った。 楓は中学校に上がり、少しずつ女らしくなっていく。男手ひとつで不足がないか気にしながらも、虎徹はできうる限り楓のすべてを請け負って大切に彼女を育てた。この街に来てから親しくなった人間が時折手を差し伸べてはくれたけれど、楓が望まない限り虎徹は人の手を借りはしなかった。 これからは楓のために生きようと思ったせいもある。娘のことはなんでも自分でやってやりたかった。そしてそれ以上に、虎徹は一定以上人を自分に近寄らせたくなかった。彼は自分のすべてをシュテルンビルトに置いてきた。だから、虎徹の中にはもう誰かを立ち入らせる余地などなかったのだ。 そして花がほころぶように少女の殻を脱ぎ捨てつつある楓は、虎徹が風化させようとしている感情を知ってか知らずか、せっせとシュテルンビルトのヒーロー達の載っている雑誌を買い集めては、彼らのことを虎徹に教えてくれる。 「最近のバーナビー駄目だよね!」 ある時楓は、いわゆるゴシップ系の週刊誌を読みながら、そう叫んだ。 楓は虎徹がヒーロー・ワイルドタイガーであったことを知っている。当然バーナビーと相棒であったことも知っているのだが、それを意識してかどうなのか、特に彼の話を虎徹に振ってくる。 虎徹としても忘れたいとは思いながらもバーナビーのことは気になって、ついつい聞いてしまうので、気にしていると思って余計に話すのかも知れない。実際それは間違っていないのだけど。 「えー、なんで。バニーちゃん今年もトップだろ?それに、なんか最近渋さも出てきたしいいんじゃねえの?あ、楓はおっさんくさいの嫌いなのか?」 夕食の後片づけをしていた虎徹は、キッチンに立ったまま、リビングのソファに寝そべった楓に答えた。夕食の支度は基本的に当番制で、作っていない方が後片づけをする。楓が中学になった時に彼女の申し出でそうなった。祖母に教えられていたのか、楓は年齢の割にきちんと料理ができる。いいお嫁さんになるな…いや嫁になんて当分やらないけど!という思考は父親としてセットのものだ。 その未来のいいお嫁さん候補は、子供っぽく足をじたばたさせてソファの上で暴れた。 「ちーがーうの!かっこいいのはかっこいいの!バーナビーはおっさんなんかじゃないの!三十になっても四十になってもおっさんにはならないの!」 あ、そう…と正真正銘どこから見てもおっさんの虎徹はちょっとだけ傷ついた。おっさんにはおっさんのよさがあるんだぞ、と思ったけれど、たしかにバーナビーは年をとっても虎徹のようなおっさんにはならなさそうである。 「そうじゃなくて、だって…いろんな女の人と噂されてるの!奥さんがいるのにそういうのダメ」 「あー…あれなあ」 楓のその剣幕に、虎徹は皿を洗い終えた流しの水を止めながらぽりぽりと顔を掻いた。なんと言っていいものやら…虎徹の心情的にも、楓の年齢的にも、どうにも複雑でフォローする言葉が咄嗟に出てこない。 結婚して一年も経たないうちに、バーナビーには女の噂が次々と出た。それはCMで共演した女優であったり、よくインタビューに来るアナウンサーであったり、スポンサー絡みのセレブの未亡人であったりした。噂になった相手はみな華やかな美人だったが、総じて社会的立場があり、頭のいい女性だったのはバーナビーらしい。 ヒーローが不倫ということになれば立派なゴシップだが、女性達が華やかにほほえんで『私たちは大人の関係なので』と言えば、なぜか低俗さは薄れてしまう。どちらかといえばバーナビーには、女達の手に入れたいというまなざしと、男たちのやっかみ交じりの羨望が集中した。ヒーローが清く正しく、という時代は終った。いまやバーナビーのように仕事ができる上に上手に遊べる男がいいのだ、とむしろそのことでもてはやされている始末だ。 虎徹にしてみれば、あのバーナビーが、と思うとなんだか奇妙な感じがした。虎徹と付き合うまでバーナビーはあきらかに童貞だった。恋ひとつ知らない青年のうぶさと必死さを虎徹は愛しさと共に覚えている。 あの一途なバーナビーが、結婚までした女性を置いて不倫しているというのは、どうにもイメージがあわなかった。そんなことをするなら結婚しなければよかったのに、というのが正直な気持ちだ。マーベリックは彼に身を固めさせたがっていたが、虎徹の問題さえのぞけば、バーナビーは当時まだ若かったのだ。急いで結婚しなくても、独身のままいまのように恋を謳歌していればよかった。 奥さんがかわいそうだな…と思いつつも、虎徹は思わず楓に向かっては彼をフォローする言葉を吐いてしまう。 「あー…バニーもいろいろあるんじゃねえの…ほら話題作りとかさ」 「そうなのかなあ。でも二人いっぺんに噂になったりしてるのどうなんだろ。バーナビーも否定してないし」 楓はむうっと声を出して、相変わらず足をばたばたさせながら雑誌の中のバーナビーをのぞき込んだ。なんだかんだと言いながら、楓はきっとその記事のバーナビーの写真を切り抜いて残しておくのだろうな、と虎徹は思った。 そんな生活が四年ほど続いた頃、アポロンメディアCEOであるマーベリックの訃報が報じられた。病死だった。あとからわかったところによると、彼は何年も前からやまいを抱えていたらしい。まだ若いバーナビーに会社を譲ろうなどと考えたのはそのせいだったのかもしれなかった。 バーナビーはマーベリックの後を継ぎ、それを機会にヒーローをやめてしまった。 「ヒーローとして僕がすべきことはもう終りました。これからはアポロンメディアのトップとして、ヒーロー業界を支えていきたいと思います」 引退会見でそう語るバーナビーの姿を、虎徹はせつない思いで見つめた。バーナビーには自分の分もずっとヒーローでいて欲しかった。けれど彼の立場ではそれは無理なのだろう。バーナビーが言うように、後進を育てて業界そのものを支える存在も必要なのだ。何年もKOHの座にあったヒーロー・バーナビーこそ、その立場にふさわしい。 さみしかったけれど、仕方がないこととして虎徹は自分を納得させた。テレビに映るヒーローをやめてしまっても、彼なら後進や業界、そしてシュテルンビルトの人々そのものの支えとなってくれるのだろう。きっとそれはバーナビー自身にとってもやりがいのある仕事だろう。 虎徹は自分とは完全に離れてしまった彼の人生の行く手を思って、そっとほほえんだのだった。 そうして虎徹の時間は、バーナビーとはまったく違うところで過ぎていった。虎徹がヒーローをやめてシュテルンビルトを離れた時から五年の歳月が経ち、もう自分は移り住んだこの街に骨を埋めるのだろうと思いはじめていた。 楓は十五歳になり、高校進学をどうするか考えはじめる年齢になっている。NEXT能力の関係でフィギュアスケートはやめてしまっていたが、文化系の部活に入って日々忙しく過ごしていた。忙しいなら食事当番はいいぞ、と言ってあるのだが、それでも楓は自分が当番の時は早く帰ってきて食事の支度をしてくれている。 その日は楓が食事当番の日だった。 もし楓がいなくても自分が食事をつくるつもりでまっすぐ帰ってきた虎徹は、もう暗くなりはじめているアパートのリビングで、あかりもつけないままソファに顔を伏せて横たわる楓の姿を見つけた。 楓は鞄さえ肩にかけたままで、どうみても学校から帰ってきたそのままの格好でそこにいた。時折ソファでうたた寝することはあっても、着替えもせずにだらしなく過ごすような子ではない。その様子のおかしさに、虎徹は慌ててソファにかけよって楓の顔をのぞき込んだ。 「楓、どうした?気持ち悪いか?熱あるなら解熱剤…」 「おと…さん……」 抱きしめた肩は熱くはない。けれど力をふりしぼってようやく、という風情であげられた楓の顔は真っ青だった。虎徹の腕をつかもうとした指は、それを果たせずに力尽きてはたりとソファに落ちる。 「頭、痛い…わ、割れるみたい───」 「…っ、楓!?」 ひゅっ、と引きつれるような息をして、楓の体がガタガタと震え出す。目は開いたままなのに、明らかにもう意識はない。閉じられないままのくちびるから、泡のようなものがこぼれ落ちた。尋常ではないその様に血の気が引いた。思わず抱き上げて走り出しそうになって、そんなことをしても意味がないことに気付く。 落ち着くためにひと呼吸だけ深い息をつくと、虎徹は救急車を呼ぶために震える手を電話に伸ばした。 「の、脳腫瘍…ですか?」 楓は虎徹の呼んだ救急車で病院に運び込まれ、痛み止めや弛緩剤を打たれてひとまず安定した。場所が頭ということもあり、楓は意識のないままにさまざまな検査に連れ回された。その後をついてまわり、時には抱き上げて運んで、ようやく病院の一室に落ち着いて眠る楓を残して、虎徹は医師に呼ばれて話を聞いた。 そこで告げられた内容に、虎徹は言葉を失う。 「ええ…詳しくは詳細な検査の結果を待たなければなりませんが、腫瘍が原因であることははっきりしています。それもおそらく特殊な、かなり難しいものです」 楓の受けた様々な検査の結果をスクリーンに出して眺めながら、医師は重々しく言葉を紡いでいく。 「おそらく頭痛がしたのは今日が初めてではないでしょう。CTで見てみてもこの腫瘍はすでに脳をかなり圧迫しています」 医師が示す楓の脳の画像を見て、虎徹は呆然とした。 気付かなかった。近頃たまに元気がない時があったけれど、楓は進学をどうするか決めかねているところがあって、そのせいで思い悩んでいるのだと思っていた。虎徹は楓が自由に決めたらいいと、彼女が相談してくるまで待っていようと思っていたのだけど… そんなことではなかったのだ。楓は日々襲ってくる頭痛に苦しんでいた。頭痛は原因が特定しにくい。他に症状がないなら、楓は気のせいだとそう思い込もうとしたのかも知れない。おそらく虎徹に心配をかけたくない一心でそれを隠した。 それなのに虎徹は気付いてやれなかった。ずっとそばにいてどんなことからも守ってやると誓ったのに、頭が痛いとたったそれだけのことを言わせてやることさえできなかった。思い返せばその兆候はあったはずなのに。食事を終えてすぐ部屋にひっこむことがあるのはなぜだった?いつもきちんと起きてくる楓が、最近たまになかなか起きてこないことがあるのはなぜだった? 悔やんでも悔やみきれない…とくちびるを噛む虎徹を見て、医師はまったく違うことを口にした。 「お嬢さんはNEXTですね」 「ええ…はい」 唐突なその質問に、虎徹はこだわることなく答えた。この街ではNEXT差別はない。楓も特にそれを隠してはいないのだから。 医師は虎徹の返答に納得したようにうなずくと、資料をめくって説明を続けた。 「この病気はA・F・T・E・R腫瘍と呼ばれるもので、NEXTに発症するものとしてここ数年で発見されたものです。NEXTは通常の人間が使わない部分の脳を使います。その副作用で起こると思われる症状…もっともかなり稀なケースではあるようなのですが」 「あふ…?」 医師の説明を咄嗟に呑み込めずに、虎徹は馬鹿みたいに口を開いてその言葉を繰り返そうとする。うまく口が動かない。医師の話す言葉に現実感がなかった。その腫瘍がどうした?どうして楓にそれが関係あるというのか。 「発見されたのがここ数年のことで、それも症例は少ない。この病の研究をし、手術に成功しているのはたった一ヶ所です。大学の研究室で扱われ、その権威の医師が執刀しています」 「……どこの病院なんですか」 現実を受け入れるのを拒否しながら、それでも虎徹はあえぐように問うていた。聞く前から答えはわかっていた気がする。かつてNEXT能力を持っていたものとして、そしてヒーローであったものとして、その答えはわかりすぎるほどわかっていたから。 「シュテルンビルトです。あそこはNEXTに対する研究が世界中のどこより進んでいる」 やはり、と思った。ヒーローのいる街。虎徹がいまいるこの街より、もっとずっとNEXTになじみが深い街。NEXTの能力に守られ発展したその街は、もちろんNEXTのこともよく知っている。 知っている街の名前が出たことで、少しだけ頭が冷えた。虎徹は自分を落ち着かせるように何度か深く息をすると、頭の中を整理するように疑問を口にした。 「……手術を受ければ、楓は治るんですか!?」 「わかりません。私はその病のことはほとんどわからないのです。一度そちらの病院に入院して検査を受けなければ」 「シュテルンビルトの病院に…ってことですね」 「ええ、しかし…いいにくいのですが、おそらく検査や手術の費用はかなり高額なものになります。それを用意できるかどうか……」 「どのくらい…ですか」 あまりにも言いづらそうな医師の表情に、またドクンッと心臓が跳ねた。楓のためならなんだってしてやる覚悟はある…けれど。 「そうですね。最近の執刀の記録をみますと、移送費も合わせて…ざっと60万シュテルンドルにはなると思います」 「60万…!?」 あまりの金額に思わず大きな声が出た。それはもう予想の範囲外の金額だ。自分の年収がいまいくらなのかはっきりとはわからなかったけれど、それでも最低十年は働かなければ稼げない額だ。とてもではないが虎徹がすぐに捻出できる金額ではない。すぐに…というより、桁が違っていてどうすればそれを用意できるのか、考えられずに思考が停止してしまうレベルだった。 その後も医者の説明は続いた。一度CTの結果をシュテルンビルトの病院に送って確認してもらうが、楓がNEXTということでおそらくその病気に間違いないということ。放置した場合の残り時間。紹介状の話や、移送することになった場合の手段など、細部にわたるそれを虎徹はかじりつくようにして聞いた。しかし聞いている間も虎徹の心を占めていたのは、どうやって金を工面するか、という問題だった。 一通りの説明を聞き終え、楓の病室に戻った。うっすらと目を覚ました娘の手を握って励まし、彼女が再び眠ってしまうと、看護士にあとを任せて虎徹は病院を出た。そしてそのまま、金策に走り回る。 アポロンメディアを辞めた時にもらった退職金、細々と貯めてきた楓の学費のための貯金、仕事先の前借り、実家に無心して土地と家、店まで担保にしてもらってかきあつめても、20万シュテルンドルを集めるのが精いっぱいだった。必要な金額の半分にもならない。どうやっても、どうあがいても、虎徹一人の力ではそれが限界だった。内臓のひとつも売れば金が作れるだろうか、と思ったけれど、それでもとても足りないという話を聞いてリスクを考えた末あきらめた。 虎徹の脳裏を、かつてマーベリックが差し出してきた小切手がよぎった。あの時彼は、その金額の桁すら把握していなかった。そんなものを自分が欲しがる日が来るとも思わなかった。金が要らないとは言わない。それでも家族を守っていくためには、ほんのわずかな金があればいいとそう思っていたのに。 どうやっても金を用意できずに、力尽きてうなだれながら楓に会いに病院に行った。病室に入る前に何度も深呼吸して表情をつくって、おー、楓調子どうだーなどと大声をあげて入っていって看護士に叱られる。 楓はやはり青い顔をしてはいたが、鎮痛剤が聞いているのかなんとか目を開けてはいられるようだった。けれど彼女のその小さな頭の中では、悪魔のような腫瘍が膨らんでいっているのだ。かつて楓はオリエンタルタウンで、その能力ゆえに差別を受けた。そして今またその能力が彼女を苦しめる。もしもそれが遺伝するものだというなら、虎徹の遺伝子こそが楓をこんな目に合わせているのかもしれなかった。 「楓、頭いたいか?……あのな、おまえ手術しなきゃいけないかもしれないんだ。そんで、その手術してもらうにはここじゃなくてシュテルンビルトで───」 「あのね、お父さん」 楓の隣に座って、どうしていいかわからないように、それでもどうなっているか説明だけはして安心させようと虎徹はつっかえつっかえ言葉をつむいだ。その言葉を遮って、楓はベッドの上に横たわったままほほえんだ。 「お父さん、聞いて」 楓はそっと手を虎徹に向かって差し伸べる。虎徹はその手を取ると、安心させるように両手で強く握りしめた。 「五年前、ね…お父さんがどこか行っちゃうって言った時、無理やりついてきたのは意地悪だったんだよ」 「楓…?」 真っ青な顔でほほえむ楓の表情は、ひどく透明なものに見えた。虎徹はその表情を知っている。ずっと前に見た。そう…いまから十一年前に、やはり病院のベッドの上で。 「困っちゃえばいいって思ってた。お母さんが死んでからずっとほったらかしで、それは…ヒーローやってたからだってわかったけど、それで納得できるほど私大人じゃなかった。やっと帰ってきたと思ったらまた私を捨ててくんだって思って…能力目覚めて、私がこんなにつらい思いしてるのにって」 「うん…うん、ごめんな。パパ、楓のそばにいてやれなくて。あの時…置いてこうとして」 そう言って握り直した虎徹の手を、楓はただ笑ってきゅっと握り返してくる。その余りにも小さな手。まだ十五歳の少女の手だ。虎徹のたった一人の娘。すべて捨ててきた彼に唯一残されたもの。 「お父さんに無理やり付いていって、あの街から逃げたいっていうのもあったんだと思う。とにかくあの時私いらいらしてて、だからお父さんを困らせたかった。なにか事情があるのに、私がついてくって言ったらきっとすごく困るんだろうと思って」 告白は楓にとっておそらく懺悔だ。それは懺悔するようなことではないのに。勝手だったのは虎徹で、まだ十歳の子供が駄々をこねて父親にぶつかるのなんて当たり前のことだ。まして楓は慣れ親しんでいた周りの人間から差別され孤立していた。そんな時こそ虎徹が彼女をつつんでやらなくてはいけなかったのに。 楓がついてくると言って虎徹はむしろ救われた。この五年間彼女がいなければさみしくてつらくてつぶれてしまったと思う。娘を守ることで虎徹は立っていられた。本当はむしろ楓に守られていたと言ってよかった。 泣きそうなのを必死にこらえて楓の顔を見ると、それを見抜いたように彼女はまた笑う。母親にそっくりになってきた顔で、母親が死の床で見せたのと同じ表情をしてみせる。 「だけど私、お父さんについてきてよかった。私やっとお父さんのことをちゃんと知れたと思う。ずっと一緒にいてくれて、口うるさいけど私のこと大事に思ってくれてるのわかった。離れてる間もずっと私のこと思っていてくれたんだよね。私を置いてこうとしたのも、本当にどうしようもない事情があったんだって今ならわかるよ」 「楓……」 紡ぐべき言葉が見つからなくて黙り込んだ虎徹に、楓は小さな声でありがとう、と言った。ありがとうお父さん、ありがとう。まるでこれが最後だとでも言うように何度も。 「ねえ…だからいいよ。私はこの五年間幸せだったから」 ほほえむ楓はとても綺麗だった。青ざめた顔をしていても、くちびるが干からびて割れていても、親のひいき目なしに見てこの上なくうつくしかった。それは燃え尽きる前の一瞬の輝きにも似て。 「私、もう満足だよ。だから────」 「馬鹿言うな、楓」 それ以上楓の言葉を聞きたくなくて、虎徹は思わず腰を浮かせて彼女の肩を抱きしめた。細い少女の肩。これだけはなにがあっても守ると誓った。なにを犠牲にしてでも─── 「おまえのことは俺が守ってやる。なにをしても…どんなことをしてでも」 そうささやきながら虎徹は視線をあげた。見つめる先には病院の壁しかない。けれど虎徹はその先にあるものを見つめて、楓の体をかき抱いた。 絶対守ってやる、とそう何度もささやきながら。 next back |