愛人契約4 「……さすがにビルはたいしてかわってねえな」 虎徹は立ち並ぶビル群の中、ひときわ高い建物を見上げてそうつぶやいた。 見上げたビルは三つに別れた街のすべての層を貫いてそびえ立ち、頂上に獅子の像を掲げている。空は青く晴れ渡っていて、目の色の濃い虎徹でも見上げればまぶしさに目がくらんだ。 虎徹の眼前にそびえるそのビルはかつて彼が通った場所…アポロンメディアの社屋だった。彼はいま、最下層にあるそのビルの正面入口に立っていた。 ───楓の病気発覚から二週間後、虎徹はシュテルンビルトに入った。 住んでいた街の病院とシュテルンビルトの病院とのやりとりで、楓がA・F・T・E・R腫瘍を発症していることはまず間違いないと通告された。金のめどは立っていなかったが、とにもかくにも痛みを抑えて進行を遅らせるために、虎徹は病院側に楓の移送を頼み込んだ。 たまたまシュテルンビルトの病院側のベッドに空きがあって、比較的すぐに病院を移ることができた。飛行機での移送は楓の体が心配だったが、看護士にひとりつきそってもらうことでなんとかなった。移送費もかなりかかることがわかるからだろう。楓はもとの街にいると言い張ったけれど、虎徹は『大丈夫だから心配すんな!』と説得し続けてなんとかこの街まで連れてきた。 楓は昨日無事シュテルンビルトの病院に受け入れられ、今は虎徹の母親がついている。 もしかしたら珍しい病気だという理由で優先的にベッドを用意されたのかも知れない。大学病院ということもあってモルモット的な扱いを受けるのではないか、と心配していたのだが、病院に入って虎徹が面談したこの方面の権威だという医師は、拍子抜けするほど温厚で人のよさそうな先生だった。 大学病院なのだから実際『先生』なのだろう。ごく弱い治癒能力を持つNEXTだという彼は、温和な口調で楓の病状について語ってくれた。手術費用についても言及され、使用する機器や薬品の関係でどうしても高額になってしまうのだと謝られた。この病気はまだ見つかって日が浅く、治療法が確立されていないゆえに国からの補助も全くないのだと。 この先生なら安心だと虎徹はほっとした。楓にもきちんと怯えさせないように説明をしてくれていて、安心して任せられると思った。あとは金さえ用意できればいい。 そう思って、今日ここに来たのだけれど──── 虎徹はひとつ深く息をつくと、意を決して見上げていたビルの中に入っていった。日差しが遮られ、空調がすうっと肌を冷やす。見回せば近代的なロビーは、彼が働いていた頃とさして変わっていない。当たり前だ、オフィスビルの内装などそうそう大きく変わるはずもない。片隅に設置されたカフェスペースやこまかな備品は変わっているのかもしれなかったが、その判別がつくほど虎徹はこのロビーのことを覚えていなかった。 人が流れていく先に、IDを通さなければ入れない社員用のゲートがある。その手前に来客用の受付があった。虎徹はそこに近づいていくと、ほほえみを浮かべる上品な受付嬢に声をかけた。 「バーナビー…社長に会いたいんですが」 「社長、でございますか…アポイントメントはございますか?」 「ないんで、とりあえず俺が来たということだけ伝えてもらえますか」 バーナビーの名を挙げたことで、受付嬢の表情がわずかに変わる。社長への来客ならば通常事前に話が通されているのだろう。いきなり来て会えるとはさすがに思っていない。用意していた連絡先のメモを差し出すと、受付嬢は少し困惑した顔で虎徹を見た。それからやや値踏みするような視線で、虎徹の顔や服装に目を走らせる。 突然やってきた不審な男の来訪を、バーナビーに伝えるべきか迷っているのかも知れない。さすがに連絡先のメモさえ受け取ってもらえないということはないと思うが、自分がアポロンメディアの社長に直接会いに来るような人間に見えないのは確かだ。バーナビーが元ヒーローということもあって、なんらかのやっかいごとを持ち込みに来たと思われている可能性もある。 警備員を呼ばれないといいけどな、と思いながらも、どうする術もなく虎徹は受付嬢の反応を待った。……とその時、背後から虎徹をうかがうような声がかけられる。 「………鏑木さん?」 呼ばれて思わず振り返れば、そこには黒髪の女性が立っていた。髪をひとつにくくっていて、ズボンにパーカーというテレビスタッフっぽい服装で、手には書類やなにかのコードを持っている。なんとなくだったが、虎徹にはその女性に見覚えがあった。人の顔を覚えない上に確実に5年以上の前の記憶だから定かではないが、見覚える程度には会った事があるのだろう。 女性は確認するように虎徹の顔をのぞきこむと、改めて問い掛けてくる。 「バーナビー…社長と昔よく一緒にいらした鏑木さんですよね?」 「ええっと…はい」 「……知ってるんですか?」 受付嬢はその女性の方を見て、小声で尋ねた。その口調から、おそらく個人的に知り合いなのだろう。それに、黒髪の女性は安心させるように笑って言う。 「ええ、社長の昔の…お知り合いよ。社長に知らせて大丈夫」 言葉の途中で一瞬言いよどんだ彼女は、もしかしてワイルド・タイガーの正体を知る人間なのかも知れない、とそう思った。どうにも覚えていないのだけど、ひょっとしたらヒーローTV関係者の可能性もあった。 黒髪の女性は少しだけ虎徹を見つめると、会釈をして足早に去っていく。もう聞えないとわかっていて、虎徹はその背中に礼の言葉を投げ掛けた。 受付嬢が連絡をすると、意外なことに十五分だけ、という条件付きで面会の許可が下りた。来てすぐにバーナビーに会えると思っていなかった虎徹は、心の整理がつききらずに動揺する。 会ってどうするのか…いやどうするもなにも、土下座してでも金を借りるのだ。他に頼れる心当たりなどない。60万シュテルンドル…あと40万シュテルンドルを融通できそうな知りあいなど、虎徹には他にいないのだから。 来客用のIDをもらうと、案内を断って社長室に登るエレベータへと乗り込む。バーナビーはマーベリックが使っていた部屋をそのまま使っているようだった。つまりそれは、5年前虎徹がマーベリックにバーナビーと別れるよう切り出された部屋だ。虎徹がバーナビーと別れることを決意し、彼の前から姿を消すと約束した場所。 フロアに降りたって警備員にIDをみせると、社長室のドアを示された。虎徹はよろよろとした足取りで扉に近づき、ふるえる手でそれを開いた。息ができなかった。開いた扉の向こうからこぼれてくるわずかな光で目を焼かれる気がした。 「────」 開いた扉の内側も、5年前とさして変わっていなかった。調度類もそのまま使っているらしい。応接セットの向こう、執務机に座っていた人影が立ち上がる。虎徹は息を止めたままそれを見つめて、後ろ手にそっと扉を閉めた。パタン、とあがったわずかな音に、思わずびくりとふるえた。 「おひさしぶりです、虎徹さん」 立ち上がった人影……バーナビーはそう言ったまま、机の向こう側から動こうとはしなかった。本来であればこちらに近づいて握手でもすべき場面で、彼はただ笑みを浮かべてこちらを見ているだけだ。 にこやかにほほえんでいるバーナビーの姿には現実感がない。完璧でうつくしい笑みは他人に向けられるものだ。時折テレビで観る姿そのままの表情に、踏み込むのを拒絶されていることを感じ取る。 それでも五年ぶりに直接見るバーナビーの姿に、虎徹は胸の中からぶわっと熱いものがこみあげるのを感じた。テレビの画面越しにしか見ることのなかった姿。濃い金色の髪は以前より少し短くなっていたが、肌の白さや瞳の色、そしてあの特徴的な眼鏡もそのままだった。バーナビーだった。その碧の瞳を見て、あふれるようにただそう思う。バーナビーだ、バーナビーが目の前に本当にいるのだ。 彼は三十歳になっているはずだった。もはや青年とは呼べない。いっぱしの男だ。過ぎた年月を示すように顔つきがシャープになり、以前には少しだけ残っていた少年っぽさがなくなっていた。白い頬はやや青身を帯びて、目の下が少し落ちくぼんでいる。痩せた、というよりは少しやつれているように見える。ちゃんと飯は食ってるのだろうか、忙しすぎてよく眠れてないんじゃないのか…と考えて、そんなことは奥さんや周りが考えて世話しているに決まっている、と気付く。 心配する必要なんてない。バーナビーは結婚して家庭を持ち、そしてアポロンメディアという会社を背負った、社会的地位のある立派な一人の男なのだから。彼を心配する者はたくさんいる。虎徹が彼を心配する必要なんてないのだし、そんな権利などない。 「た…のみがあって来た」 こちらに歩み寄っても来ない、ソファを勧めもしないバーナビーに拒絶されているのを感じて、虎徹はふるえる声で切り出した。なにか言わなくては。15分と言われた。彼とこうして真向かっていられるのはたった15分だ。その間にきちんと話して、過去のことを謝罪して、それからなんとかして金を借りなければ。 そう思っているのに、事前にかけるべき言葉は用意してきたはずなのに、実際のバーナビーを前にして思考が停止した。心臓が破裂しそうだった。なぜ自分はこんなところに立っているのか。 「───そうですか」 虎徹が食い入るように見つめている先で、ほほえんだままバーナビーが言う。その表情と裏腹に声は冷たかった。それでも彼は虎徹から目を反らすことなく視線を合わせたまま、言葉の先を促した。 「それで?」 「バニー…金、貸してくれないか?」 ふるえる声で言ってしまってから、虎徹はバーナビーから目を反らしてくちびるを噛んだ。動揺のあまり最悪の切り出し方をした。これでは昔のよしみで金をせびりにくるチンピラそのものだ。バーナビーの表情も、虎徹の言葉を聞いた途端わずかにこわばった。 おまえしか頼れるやつがいなくて、とか5年前は突然連絡を絶って悪かった、などと言い訳やごまかしの言葉はいくつも思い浮かんでくる。楓が、とそう口に出そうとしたけれど、バーナビーに黙って姿を消して家族の方を取ったのだという事実を彼に突きつけたくなかった。虎徹の心情としてはそれほど単純なものではなかったが、バーナビーにとってはそれが事実のすべてだろう。 来るべきではなかった、と虎徹は思った。それでも、もうバーナビー以外に頼るものを思いつかなかった。楓を助けるためには他に方法はない。バーナビーに忘れ去った過去の汚点を掘り起こさせることになったとしても、どうしても金を借りなければならない。 バーナビーは眉を寄せたまま虎徹を見て、抑揚のない声で問い掛けてくる。 「……金、ですか。いくら必要なんです」 「50───いや、40万シュテルンドル」 できれば兄の店や田舎の家は売らずに残したかったが、それは欲張りすぎだろうと思って虎徹は言い直した。兄や母には申し訳なかったが、彼らは家族だ。楓のためになんでもするつもりでいてくれる。だから他人にかける迷惑はなるべく減らすべきだと思った。 虎徹の言葉に、バーナビーは一瞬ものすごくいやそうに顔をしかめる。いままで仮面をかぶっていたバーナビーのはっきりと感情の見えたその表情に、虎徹は心臓が縮まるような心地がした。 「それなりに大金ですね。……もちろんお貸しすることはできますが」 一瞬で表情を戻して、あくまで感情の見えない声でバーナビーは続ける。じっと虎徹を見据え、値踏みするように視線を上下させた。 「僕があなたに金を貸すメリットは?」 「め、メリット?」 「なんのリターンも見込めないのに投資をするほど、僕は愚かしくありませんよ。昔のよしみで、と言ってくる人間も後を絶ちませんしね」 そう言われて、虎徹はかあっと頬が熱くなるのを感じた。アポロンメディアの社長であり、シュテルンビルトを代表するヒーローで英雄だったバーナビーにすり寄るハイエナたち。虎徹はまさに言い訳しようもなくそのうちの一人だった。なんの担保もなく金を借りようとしている。ただ昔の相棒だと言うだけで。ただ恋人だったと───それだけを理由に。 「あなたは能力をすでに失っているんですよね?NEXTとしての価値もない。ヒーローであった過去をいかすにしても、あなたにその手のキャスターが勤まるとは思えませんし、アカデミーの講師などではこちらへのリターンが少なすぎる」 淡々と語られる虎徹に対する評価。自分がまったく無価値だとは思わないが、バーナビーの言う言葉には間違いはなくて、虎徹は黙ってうなだれた。己に金銭を生むような価値があれば最初からそうしている。虎徹ができることは、こうしてせいぜい人の慈悲にすがって頭を下げることくらいだ。あとできることは肉体の切り売りくらいだが、それすらも必要としている金額には到底足りない。 「あなたに40万シュテルンドルの価値が?」 「……そ、うだな。そんな価値はないな」 時間を取らせて悪かった、他を当たるよ、とそう口にしかけて虎徹は一度開いた口を閉じた。他に当てなどない。ないからバーナビーのもとに来たのだ。二度と会わないと思っていた。会うことなどできないとそう思っていた相手だった。その戒めを振りきってまで、虎徹はここに立っている。 どんなことをしても金を借りようと思っていた。楓の命がかかっている。取りすがっても、泣きついてでも、金を貸してくれと言うべきだと思った。このままここを立ち去ることなんてできない。そうしたらこのままになる。このままで……そう、金を用意できなくなるから。 「け、ど…どうしても金が必要なんだ」 ふるえる声で虎徹は尚も食い下がった。情けない、みっともない。いっそ床に頭をこすりつけて土下座でもすればいいものを、バーナビーにじっと見つめられて体が動かなかった。いまきっと彼は蔑んだ目で自分を見ている。そう思えば彼を見返すことさえできない。 なぜ、とはバーナビーは聞かなかった。聞きたくなかったのかもしれないし、どうでもよかったのかもしれない。おそらく後者だろう。そのあと発せられたバーナビーの声は冷ややかなものだったから。 「……そこまで言うのなら仕方がありませんね」 バーナビーは物憂げに息をつくと、突然机を回り込んでカツカツと虎徹の方に近づいてきた。いきなり縮まる距離に、虎徹は反射的に逃げそうになる。バーナビーの手が伸びてきて、うつむいていた顔をあげさせられる。無造作なそのしぐさにバーナビーの怒りを感じた。彼は虎徹を下等なものとして扱おうとしている。それを感じて、虎徹は肉体的にではなく心理的に怯えた。 「そうですね…どのみちあなたに貸すなら、僕の個人資産から出すことになる。だったら社会的価値などなくてもかまいませんね」 そう言ってバーナビーはうっすらと笑った。酷薄な印象のする、けれどひどくうつくしい笑みだった。虎徹が思わずそれに目を奪われると、バーナビーはすっと手を上げて彼の胸元にふれた。 「………!?」 指先がシャツ越しにふれている…それだけの接触。けれどほんのりとバーナビーの体温を感じて虎徹は動揺する。 「この体を買いましょうか?」 「……俺にはもう能力はない」 意識は胸元に集中していたけれど、顔だけはなんとかバーナビーの方に向けて虎徹は低い声で言った。バーナビーの言葉の意味など考えられない。近すぎる距離が五年の歳月を虎徹の中から消してしまう。ここにいるのは虎徹がもうふれることのないはずの人間だ。五年の間に心も体も隔たってしまった。 ふれてはいけない。バーナビーも自分に近づくはずもない。そう思うのに、じっと動かずに胸元にふれている指の体温が、その思いを裏切る。 「そういう意味ではありませんよ。社会的価値ではない。そう…もっと個人的な話です」 やわらかくほほえんでそう言うと、バーナビーはゆっくりと手を動かした。わずか十数センチ下に移動しただけの動きに、虎徹はびくりとふるえた。いま彼はベストをつけていない。シャツとネクタイ、ジャケットだけだ。そのシャツの布一枚越しにすうっと肌をなぞられて、馬鹿みたいにぞくぞくした。乳首が勃ってしまっているのではないかと思ったが、確認する勇気はない。 「妻は多忙な女でね。僕たちがベッドを共にすることはほとんどないんですよ」 やわらかなバーナビーの言葉に一瞬、は?と声をあげそうになった。虎徹が一人で変な気分になっているだけで、今はそんな方面の話などしていなかったはずだ。まさか久しぶりに会っていきなり性生活の話をされるとは思わなくて、虎徹はバーナビーを見上げたまま硬直した。 「僕はまだ枯れるには早いですし、それではフラストレーションがたまります。ですから発散する相手が欲しいんです」 体を買う、という言葉の意味に気付いて、虎徹は息を呑んだ。そんなはずはない。五年前とは違う。女に不自由していないバーナビーが、いまさら虎徹を抱こうとするはずもない。バーナビーには妻がいる。男の影もない貞淑な妻だ。彼自身が選んだその女性を置いて、そんなふしだらなことは許されない。 「そ…んなの」 「お互いに承知の上のことですよ」 虎徹がなにを言おうとしているのか察したのか、先回りしてそう言われる。結婚は結婚、セックスや恋人は別物、という夫婦が存在することを一応知識としては知っていたが、どうにも受け入れがたくて虎徹は眉を寄せた。けれど夫婦がお互いに納得している以上、彼が口を出すことではない。 けれど家庭と性衝動が別だとしても、その相手が中年の男だというのはありえない。虎徹は視線を泳がせて、そういえば…と思い出したことを口にした。 「……それに、知ってんぞ。おまえ奥さん以外に何人も恋人がいるだろ」 「おや、よく知ってるんですね。僕のことなんて興味がないかと思いましたが」 虎徹の言葉に、バーナビーは綺麗に笑ってそう言った。 「突然連絡を絶って、だから僕のことなど忘れていたかと思いました。……金の無心をする以外には」 「っ……」 続いた言葉に虎徹は息を呑んだ。そうやってなじられることは予測していたはずだったのに、他人行儀にしてこちらの用件を聞くばかりだったバーナビーの態度に油断していた。五年前のことなど過去の汚点として切り捨てたいのかと思っていた。けれどそうだ…忘れられるはずもない。虎徹はバーナビーをひどい方法で裏切った。虎徹とのことは過去のことだとしても、黙って自分を捨てた男を彼は憎んでいるはずだ。少なくともあの頃、たしかにバーナビーは虎徹を愛してくれてはいたのだから。 いつの間にかバーナビーの腕は、虎徹の肩を抱き寄せていた。首筋にくちびるを寄せられ、胸元に添えられていた手をゆっくりと何度か上下されて体がすくむ。押しのけなければ、と思うのに、バーナビーの意図が読めなくて動けなかった。いやがらせ、なのだろうか。性的な匂いのするしぐさは虎徹の中の記憶を呼び起こして怯えさせる。思い出してはいけない、と思うのに、体はあっさりと五年前までふれていたこの男の情熱的なしぐさを思い出す。 五年間そうした衝動とは無縁だった。一人で処理することはあったが、もう誰かと肌を重ねることはないだろうと思っていた。それなのにバーナビーの吐息が、肩を抱く腕のぬくもりが、シャツ越しの手の感触が、虎徹の中の欲望を掘り起こす。 バーナビーは罰を与えるように虎徹にその感覚を味わわせて、冷静な声で言葉を続けた。 「そう、欲望を発散させるための恋人は何人かいますよ?割り切った相手はね。けど、女性は面倒じゃないですか。割り切ってると言っても、なんだかんだと放っておけば機嫌をそこねますし、服やら宝石やら投資も次々必要です。しまいに次の妻の座を狙おうとする。ピルを飲んでいるふりで生でしようとしたりね」 「生ってお、まえね……」 その程度の話で赤くなるほど初心でもないが、バーナビーの口からそうした生々しい言葉が出るのはいたたまれなかった。虎徹と恋人であった頃のバーナビーは女を知らなかった。初めてがこんなおっさんでかわいそうだな、と思いながらも独占欲を感じてじわじわと嬉しかったのを覚えている。 バーナビーは虎徹を追いつめて少し満足したのか、ふわりとほほえんで彼から手を離した。踵を返して執務机の方に戻ると、鍵のかかった棚からなにかを取り出してさらさらと文字を書き込む。ビッ、と台紙からそれを引きはがすと、メモを添えて虎徹の方に差し出した。取りに来いというのだろう。虎徹はふらふらとそちらに歩み寄ると、机越しにバーナビーの手からそれを受け取った。 「先払いです」 バーナビーが差してしていたのは額面と彼のサインが記された小切手だった。差し出された小切手を虎徹はじっと見つめて、ゆっくりと桁を数える───そこには20万シュテルンドルの額面が書かれていた。先払いにしてはずいぶん金額が大きい。 もう一枚渡されたメモには、ゴールドステージの住所が記されていた。マンションなのだろう建物の名前は虎徹には覚えがない。記載された部屋番号は相当高層階のもので、これだけ高いビルに覚えがないということはこの五年の間に完成した建物なのかもしれなかった。 小切手とメモから顔を上げてバーナビーを見ると、彼はすでに執務机に座っていて、テレビで観るような完璧な笑顔で告げた。 「条件を呑めるのなら、今晩21時にその部屋まで来てください。呑めないなら…そうですね、その小切手は自由にしてくださって結構ですよ。昔のよしみです。その程度なら寄付してさしあげてもかまわない」 その程度…その程度か、と思って虎徹は笑う。バーナビーが簡単に『寄付』しようとしているのは、虎徹が貯金のすべてやあらゆる手段を使ってかき集めた金額と同じ額だ。自分を卑下するつもりはなかったが、それが今の虎徹とバーナビーの立場の違いなのだと思えば隔たりを感じた。 おそらくバーナビーは虎徹を試しているのだろう。それだけの覚悟はあるのかと。昔、手ひどく裏切った自分に金を借りるということは、それだけのいやがらせを受けても当然のことなのだと。もしかしたら虎徹が応じて困るのはバーナビーの方なのかもしれない。『寄付』の金だけで満足するだろうと思ったのに、条件を真に受けて虎徹がこの場所に行ったら、彼は困惑するのかもしれなかった。 バーナビーは立ち尽くす虎徹にすでに興味を失ったように、机の上の書類をめくりはじめる。帰れということだろうと思ってそっと腕時計を見ると、ここに入ってから15分が経過していた。相変わらず時間に正確だと苦笑して、虎徹は踵を返して社長室を出た。 後ろを振り返りはしなかった。なごりを惜しむ必要はない。虎徹はすでに覚悟を決めていた。 虎徹は受付嬢にIDを返して礼を言ってからアポロンメディアから出ると、その足で銀行へ向かい、窓口で小切手を処理してもらった。虎徹の身なりでこんな金額の小切手は不審だろうと思ったが、バーナビーが手を回していてくれたのか『鏑木様ですね』と身分証の提示を求められただけですんだ。 虎徹は小切手の金をそのまま病院の口座に振り込んで貰えるように頼んで銀行を出た。それから病院に向かい、痛み止めの作用で眠っている楓の顔を見ると、母親を別室に呼び出して金はなんとかなりそうだ、と説明した。虎徹は自分と母親のためにウィークリーマンションを契約していたが、今日はその部屋に帰れないかも知れないと告げる。 彼女は『そう』と言っただけで、どこで金を調達したのかもなぜ今日は帰らないのかも聞きはしなかった。きっと聞きたかっただろうけれど、楓のために虎徹ができうる限りのことをしようとしているのがわかったのだろう。理由を聞かないでいてくれた。 一度ウィークリーマンションに戻って、虎徹は五年前にも着ていた服装に着替えてゴールドステージの指定された場所に向かう。 躊躇はなかった。 虎徹には選択の余地はない。 ────だから。 next back |