愛人契約6







 バーナビーの『愛人』としての暮らしは、そう悪いものではなかった。
 『愛人』であり、シュテルンビルトに仕事があるわけでもない虎徹には、基本的にすべきことがない。バーナビーに部屋に戻っているよう指示されている夕方まで働くことも考えたが、今は楓のもとにいてやりたかった。
 一人には広すぎるベッドで目を覚まし、シーツも脱いだ服もそのまま、買い与えられた服を着てでかける。昼間は楓のもとに行き、夕方にはマンションに戻って、バーナビーを迎える『準備』をして彼の訪れを待つ、という暮らし。掃除や洗濯さえ昼間に入る人手によって終わらされている。
 楓はひとまず手術ができるようにするため、脳の状態をよくするように(血管がどうの、と言われたがいまひとつ理解できなかった。信頼できる医師だからまかせようと思ったのもある)薬を入れ続けることになった。それで様子を見て手術の日取りを決めることになるらしい。
 少し時間がかかるし、その間多少の痛みはあるままだが、これ以上病状を進行させることはないから安心して欲しいと言われて、虎徹も楓も力強くうなずいた。楓は目に見えて生きる気力を取り戻し、あとは手術日が決まるのを待って医師にすべてを任せるのみだ。
 数日するとマンションの部屋に、以前虎徹のサイズを測りに来たテーラーから服が届いた。小物まですべて揃いで5〜6着もあったその高そうな服におののいたが、カジュアルなものもあったからとりあえずそれを着ていた───が、さらに数日するとまた服が届いて、しまいにクローゼットにおさまりきらない量になって目を白黒させるはめになる。
 バーナビーのものかと思ったがあきらかにサイズが違う。着てみれば虎徹の体にぴったりなそれは、彼のためだけに仕立てられたものだ。女は『投資』がいって面倒だから俺にするんじゃなかったのかよ、と思ったけれど、この程度のことはバーナビーにとっては自分が身につけるアクセサリーの手入れをするようなものなのかもしれなかった。
 最初の日になくなった服はそれから戻ってくることはなく、虎徹が持ち込んだ服や下着も翌日外から帰ってくると消えていた。どうやら外から持ち込んだものをここに置くなということらしい。時計やブレスレットを捨てられないだけよかったのかもしれないが、下着まで全部バーナビーの金で買ったものを身につけるのはどうにも落ち着かなかった。
 虎徹はバーナビーに買われた。彼の愛人で彼の持ち物だ。その体を包むものも飾るものも、すべてバーナビー好みに整えなければならない。……四十をすぎた中年男に、それは無駄な努力だとしても。
 予告された通り、バーナビーの訪れは頻繁なものではなかった。せいぜい三日に一度、時には一週間ほど間があくこともあった。その代わりと言ってはなんだが、時間があるときに訪れた時はほとんど虎徹が意識を失うまでさいなまれることが多かった。
 そんなにされたら持たない、と思うけれど拒む気は起きない。自分はバーナビーの愛人なのだ。愛人だからといって拒む権利がないわけではないけれど、今はもうできるだけ彼を拒否したくはなかった。
 それに…と虎徹は思う。
 虎徹にかかずらっていれば、さすがのバーナビーも他の女と寝る回数は減るのではないだろうか。結婚している身で恋人が何人もいる状態はバーナビーにとっていいことではない。だからと言って虎徹ならいいのか、と言えばそんなことはないが、ビジネスだと割り切っている関係ならまだいい気がした。
「奥さん、いんのにな…」
 息をついて、無意識に自分の左手の薬指にふれる。そこには永遠を誓った証しである指輪がはまっている。その誓いを破った自分には、バーナビーの不実を責める資格などないのかもしれない。
 それでもバーナビーの妻は生きている。忙しくとも生きて存在していて、会おうと思えば会えるのだ。それなら本来バーナビーのすべては妻に捧げられるべきもので、他の女となど寝るべきではない。
(俺は、馬鹿か……)
 そこまで考えてから自分の思考の矛盾に気付いて、虎徹は小さく笑った。
 妻以外の人間と寝るのは不実だと言っておいて、自分なら割り切っているからいいと言い張る。他の女と寝る機会を減らすべきだと思いつめて、結局のところ自分自身がそれを嫌がっているに過ぎない。バーナビーは、他の女とのことは妻も知っていることだと言っていたではないか。勝手にバーナビーの妻の気持ちを慮っているつもりで、そうではない。そんなことを言うならば、自分こそバーナビーとの関係を断ち切るべきだ。
(愛人、なんて…)
 これは契約だ金のためだと言い聞かせたところで、結局虎徹はなんの感情もない相手と寝られる人間ではない。ビジネスなのはバーナビーの方だけで、虎徹の方はそこまで割り切れていない。そう自分に言い聞かせなければ結婚している相手と寝られないだけで、義務だという理由だけで抱かれることなどできはしなかった。
 そもそも虎徹は、バーナビーに会いに来るべきではなかったのだろう。だけど虎徹は彼に再会してしまった。彼にすがって、善意をせびった。もはやバーナビーから離れることができないのなら、せめて言い訳せずに彼の役に立てればいいと思う。
 気晴らしが必要ならその相手になれるように。気を使う相手にはできないことでもさせてやれるように。面倒な相手にならないようにして、彼を気づかってやれるように。『愛人』らしく───情欲と共になにかを吐き出せる場所になれればいいと思った。
「さて」
 虎徹は深い息をつくと、帰ってきてから脱力して座っていたソファから立ち上がった。だだっぴろいリビングを横切り、まじきりの向こうのキッチンの方へとぺたぺたと歩く。
「今日、来っかなー。来そうな気がすんだけどなー。こなかったら……ま、いっか」
 そうつぶやいて、虎徹はカジュアルではあるものの、素材がよく高そうな服の上からエプロンをつけてキッチンに立った。
 エプロンは自分で買ってきた安物だったが、部屋に置いておいても捨てられることはなかった。真新しいものだったから、シュテルンビルトに来てから買ったものだとわかったからかもしれない。バーナビーのカードで…彼の金で買ったものだったから。
 バーナビーが虎徹の持ち物を捨てさせる意図は、問いただしたりはしなかったらはっきりとはしなかったが、なんとなくわかる気がした。過去を、鏑木・T・虎徹という個人を、バーナビーの愛人として暮らすこの部屋に持ち込まれたくないのだろう。ここにいるのはただの『バーナビー・ブルックス・Jyの愛人』だ。虎徹の存在はそれ以外の意味も名前も持っていない。
 むしろその方が気楽でいられるかもしれない、と思いながら、虎徹は使われている形跡のないキッチンで好き勝手料理を作った。機材は一応一通り揃っていたが食器が少なくて、そこに不似合いな茶わんや箸も買ってきてしまった。安物のそれらにできあがった料理を盛っていく。
 バーナビーが帰ってきたのは、ちょうど料理の最後の魚が焼き上がった頃だった。今日あたり来るのではないかという予想が当たって、虎徹は魚を皿にあげながら笑って振り返る。そんな彼を見て、キッチンの入口に立ったバーナビーは少し途方にくれたような顔をしていた。
 虎徹は小首をかしげて声をかける。
「おかえり。なんで突っ立ってんの。着替えるか座ったら?」
「なにか匂いがすると思ったら…なにしてるんですか」
「みりゃわかんだろ。飯作ってたの」
 言いながら、キッチンのカウンター越しに魚の皿をテーブルにドンと置いた。バーナビーは不思議なものを見るような目で、料理と虎徹の顔を交互に見つめる。
「おまえ、今日は来そうな気がしてたんだよな。ちょうどよかったよ。二人分作ったからおまえも食え。あ、言っとくけど料理の腕はあがったからな!ちゃんと炒飯以外も作れるぞ」
「食事はケータリングを頼めばいいと言ったでしょう…」
「えー、このマンションの下に入ってるあの高級レストラン群のやつだろ?あんな高いの食ってられるか、もったいねえし俺の口にあわねえの!」
「ルームナンバーを言えば僕の口座から落ちるだけですから安心してください。最初に説明したでしょう。あのメモ読んでないんですか?」
「読んだよ。おまえの金だろうがもったいねえっつーの」
 ケータリングのメニューは一応見てみたが、サンドイッチひとつに馬鹿みたいな値段がついていて、とてもじゃないが頼む気になれなかった。たまにならいいかもしれないが、あんなものを毎日食べて暮らそうとは思えない。
「それに、食材買ってくんのにカードは使ったぜ。スーパーも馬鹿みたいに高かったけど」
 どうだ、使ってやったぞ!とばかりに言った虎徹に、バーナビーは困惑した視線を向ける。虎徹は菜箸を持ったまま肩をすくめて、行儀悪く箸でバーナビーの方をさした。
「おまえちゃんと飯食ってないだろ」
「…ちょっと疲れているだけです。社長業は忙しいんですよ」
「社長はせこせこ動き回らずにドーンと構えてた方がいいと思うけどなあ」
 毒気を抜かれたようにつぶやいたバーナビーに、虎徹は気楽な声でそう言った。それほど簡単なものではないとはわかってはいるが、虎徹は会社など社長ひとりの力でどうにかなるものではないと思っている。社長がするのは流れを決めることだ。バーナビーのように四六時中、社長が駆けずり回らなくとも会社は回っていくように思う。
 それになにより、ずっと全身に力を入れっぱなしに見えるバーナビーに、肩の力を抜かせてやりたかった。彼には明らかにもう少し休養が必要だ。他人に気を使うことなく、力を抜いてすごせる時間が。
「それに、忙しいんだったらこんなとこ来てないで……」
「口出ししないでください」
 休め、とそう言いかかった言葉を途中できっぱりと遮られて、虎徹はまた肩をすくめた。まあ確かに虎徹の立場で仕事のことに口を出すのはやりすぎたかもしれない、と思ってその場は流すことにする。
「あー、はいはい。和食にしたけどそんな突飛なもん作ってねえから食えるよな?」
「和食は嫌いじゃないですが…あまり見たことのないものですね」
「そりゃ家庭料理だからな。おまえが食いに行くようなとこでは出ないだろうよ」
 そう言って虎徹はバーナビーを無理やり椅子に座らせると、ジャケットを脱がせてクローゼットにしまいに行ってやる。リビングとつながった広いキッチンは魚を焼いた匂いに満ちていて、このままこの部屋に置いておいたら高級な服に所帯くさい匂いがついてしまう。
 キッチンに戻ると、作業する時に少し使うだけ、というような華奢なテーブルセットに座って、バーナビーがテーブルの上を見つめてちょっと呆然としていた。きっと見慣れないんだろうな、と思って少しおかしくなる。虎徹が作ったのは、白いご飯にわかめと豆腐のみそ汁、アジの干物を焼いたものに里芋を中心としたごった煮、ほうれん草のおひたし…という完璧な日本の家庭料理だ。
 虎徹はご飯とみそ汁をよそってやってからバーナビーの向かいに座り、ほいっ、と箸を差し出した。
「バニー箸使えたっけ?あっ、魚はむずかしいだろうからほぐしてやるよ」
「商談で和食のこともあるので箸は使えますが……」
 虎徹が魚の皿を奪うとバーナビーは微妙な顔をしてそう言ったけれど、それをスルーして魚をほぐした。皿を戻そうとして顔をあげると、バーナビーは里芋と格闘していたようだった。吹き出しそうになるのをこらえて(そもそも箸を使い慣れない人間に里芋を出すのは間違っていた)、刺していいぞというと、ほっとしたような顔をする。
 そんな風にしていると三十の男、それも大企業の社長には見えなくて、やっぱりバーナビーはバーナビーなんだな、と納得する。かわいくて仕方がなくて思わずその髪を撫でたくなったけれど、そんなことができるはずもなく虎徹はぎゅっと手を握りしめた。
 なにをいまさら、と思う。顔色のよくないバーナビーが心配で、せめてあたたかいご飯を食べさせてやりたくて夕食を作ったけれど、彼の世話を焼いてやれる立場を手放したのは虎徹だ。今は少し無理をしているのかもしれないけれど、バーナビーを心配する人間なんて他にもたくさんいるだろう。
 そう───彼の妻や、その他多くの人間が。
 バーナビーはちょっと困ったような顔のまま、虎徹のつくった食事を食べた。里芋をつかむのはさすがに無理だったようだが、基本的に箸使いは綺麗だ。相変わらずそつなく上品だなあと感心して見ていると、その視線を勘違いしたのか、バーナビーが視線をあげて言った。
「……ちゃんと、おいしいですよ」
「そりゃよかった。おまえ外で食うのが多いみたいだし、あっさりしたのがいいかなと思ったんだよ。外だとあんま食えなくてもこういうのなら食べやすいだろう?」
「────」
 虎徹が笑って言った言葉に、バーナビーはなにも答えなかった。ただ黙々と箸を動かして食事を平らげていく。彼は米の一粒まで綺麗に食べきってから箸を置いた。飯とみそ汁おかわり…と言いかけた虎徹は、バーナビーの静かな視線にあって開いた口を閉じた。
 バーナビーは、ふう、と深い息をひとつつくと、抑揚のない声でつぶやく。
「……こんなことまでしなくていいです」
「別に好きでやってんだよ。自分が食いたかっただけだし。それに…あれだ、愛人って飯作ったりするもんじゃね?」
「……作りませんよ」
「え、そう?なんつーかさあ、小料理屋の女将とかでさ」
「どういうイメージなんですか。僕がつきあった人はみんな、外で食べるかケータリングか、せいぜいフルーツで───」
「じゃあさ、いいじゃん、一人くらい。貧乏くさい飯作る男妾がいても」
 虎徹が肩をすくめてそう言うと、なぜかバーナビーはいらだったような顔をした。そしてそのまますっくと立ち上がり、部屋を出ていくのかと思えば、虎徹の方に歩いてきて彼の肩をつかんだ。
「バニー…?」
 無理やり立ち上がらされて、わけもわからずバーナビーを見上げた。バーナビーはちらっと華奢なテーブルに視線を走らせてそちらは無理だと思ったのか、すぐ横にあったカウンターに虎徹の腰を押し付ける。
「な、なん……」
「その気になりました」
 バーナビーの突然の行動に、けれどその瞳に浮かぶ色でその先のことがわかる気がして、後ずさろうとすればそうハッキリ宣言された。エプロン越しに腰を押し付けられて、思わず一瞬で虎徹も『その気』になりそうになる。
 だけどまさかこんな格好で、こんなところでおっぱじめる気じゃないだろうな、と思ってさりげなくバーナビーの肩をつかんで自分から遠ざけようともがいた。
「ちょっと待て。えーっと……その、飯食ったとこだし、いろいろ作ってて匂いついてるし」
「同じもの食べたんだからいいでしょう。それにおいしそうな匂いがします」
 そう言って、バーナビーは手を虎徹の背後に回し、確認するように尻のはざまをなぞった。
「用意はしてるんでしょう?」
「し…てる、けど…ここじゃいやだ」
 いつものように洗浄してジェルをぬりこめてある場所を服の上からなぞられて、びくんっと腰が跳ねた。バーナビーが言い出したらひかないのはわかっていたが、生活感のないこの部屋でいまここだけがリアルすぎて、どうにもうなずくことができない。自業自得だが嗅ぎ慣れたみそ汁やご飯の匂いの中では、鏑木虎徹という個人から意識を切り離せなかった。
 虎徹はバーナビーの愛人でなければいけないのに。ただ彼の欲望を発散させる道具であらねばいけないのに。
「どうしてもいやですか?」
 ちゅっ、と首筋に吸い付きながらバーナビーは甘い声で問い掛けてくる。拒むな、と命じることもできる立場なのに、それでもあえてそんな風に尋ねてくるバーナビーの態度に眩暈がした。そんな風にされると、甘やかされている気分になる。これがただの恋人同士の戯れのようにさえ思えてしまうから。
「……いやじゃ、ない」
 一瞬だけ目を閉じて、くらくらするようないたたまれなさを押し込めてから虎徹はそう答えた。それから顔を上げて、どうするべきかを考えて視線をさまよわせる。この場で舐めて勃たせて、それから入れさせればいいだろうか。そう思ってバーナビーのズボンに手を伸ばすと、それはいいから、と手を押しのけられた。
「いいから、自分の服を脱いでください。……上は僕が脱がせてあげますね?」
「え」
 そう言って、なぜだかバーナビーは黒いエプロンのすきまから手を突っ込み、ずるりと虎徹のシャツのすそをひきずりだすと、下の方から順番にボタンを外していく。狭い布地のすきまで、バーナビーの割に大きな手がのそのそと動いていた。
「ちょ…待て、エプロン外すからっ……」
「だめですよ。汚れるでしょう?」
「よ、汚れるって……」
 汚れるもなにも、もう服は脱いでしまうのだ。だったらエプロンを外したって問題ないはずだ。いやしかしこんなところで全裸になるよりは、エプロンでもつけていたほうがマシだろうか…と思ったけれど、そもそもするだけなら全部脱ぐ必要なんてない。それはそれでいたたまれない気がしたが、ズボンと下着を少し押し下げて、尻だけ出せばいいだけの話だ。
「っ…なんなんだよ、おまえっ…誰かに裸エプロンやらせてみたかったの?」
「裸エプロン?そんな風に言うんですか、これ?」
 エプロンの間に手を突っ込んで、シャツをはだけさせながらバーナビーがくすりと笑う。嘲笑の響きを帯びたそれは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりで、この格好を恥ずかしがっている自分の方がおかしいのかと思ってしまう。しかしいい年の男が、素っ裸にエプロンひとつをつけている図はあまりにも滑稽だろう。
 けれど、いいから脱いでくださいと言われて、虎徹は自分の今の格好がどういうものかということに思考を巡らせないようにして、どうにか下肢の衣服を脱いだ。バーナビーに胸元を押さえられたままで、膝にひっかかった服が脱げずに蹴り飛ばすようにして足から引き抜く。
 その間にバーナビーの手はエプロンの間から抜け出ていて、ほっとしたのもつかの間、今度はエプロンの布越しに胸元をなぞられた。
「んっ……」
 黒い布地の上からでも、バーナビーの指は正確に虎徹の乳首にふれてくる。安物だからそう分厚い布ではなかったけれど、粗い目の上からこすられて少し胸先が痛む。その上、布に唾液をふくませるようにくちびるを寄せられ、じんわりと染み込んでくるものに背筋が震えた。
「ここ…エプロンの上からでもすぐわかりますよ。服脱いだだけで感じちゃったんですか?それともずっとこんななのかな」
「っ……」
 あなたのここ、とささやかれて布ごとつままれ、痛みにうめいた。そうするとバーナビーは、今度はなだめるように耳の下や首筋にキスを落として、やわやわと両方の乳首を布越しに指の腹でいじってくる。じわじわと登ってくる快感に思わず後ずさろうとしても、カウンターに阻まれてそれ以上後ろにはいけない。
 うっかりバランスをくずしてカウンターの上に倒れ込みそうになった虎徹の背中を、バーナビーの腕が抱き寄せて支える。無意識のそのやさしいしぐさにどうしてか泣きそうになって、虎徹は腕をあげてバーナビーにしがみつくと、噛みつくようにキスをした。
 一瞬だけくちびるを合わせてすぐに離す。それからバーナビーがつけたままだったネクタイをつかむと、彼を見上げて言った。
「ネクタイくらいとれよっ…!」
「ほどいてください」
 あなたが、とささやかれてゾクゾクした。きちんと着込んだシャツとネクタイ。ジャケットを脱いだだけで、バーナビーはいまも大会社の社長然とした格好をしている。ストイックなバーナビーの姿を前に自分はエプロンひとつで立っていた。そのことに気付いていたたまれなくなったけれど、おぼつかない手でスルリとバーナビーのネクタイをほどき、眼鏡を取ってカウンターに置いてやる。その手に手を絡められた。
 指の間を愛撫するように手を重ねられ、そのままカウンターに追いつめられるようにしてキスをされた。抱き寄せられ、ねっとりと絡みつくようなキスを与えられて、自分がどんな格好をしているのかを忘れていく。ふれあった舌はみそ汁の味がして、そのことに少し笑った。
「ば…に……」
 口腔をすべて味わうような丁寧なキスをされながら、背中を、腰をなでられて、溶かされていくような心地を味わう。前こそエプロンにおおわれているものの、後ろはエプロンを縛る紐があるだけでほぼ全裸だ。さっきまで食事をしていた場所でこんな格好をしている滑稽さは、わきあがってくる快感に溶けて忘れていく。バーナビーのキスと指がやさしくて、自分を見失いそうだった。
 自分の立場も、年齢も、性別さえ────
(忘れられたら、いい)
 鏑木虎徹という自分。金で買われたバーナビーの愛人でしかないという事実も。
「見て」
 バーナビーはくちびるを離すと、くすりと笑ってうながすように下を見た。その視線につられて虎徹も下を見る。
「エプロン…押し上げてる」
「ふあっ…!」
 二人の体のはざまで、黒いエプロンが不自然に盛り上がっていた。それをエプロンの布地ごと握り込まれて、へんな声が漏れた。その形を確かめるように握ったままなぞられて、じわりと欲望があふれだす。それを、バーナビーの声がねっとりと指摘してくる。
「黒い布に染みができていやらしいですよ」
「ばに…布、こすれて痛い……エプロン、はずして」
 布地越しの愛撫は敏感な場所にはひりひりと痛くて、哀願する声でそうねだった。自分でしようとしてはいけない。それは愛人になってから覚え込まされたことだ。けれどその『おねだり』に、バーナビーは小さく笑ってささやいた。
「直接さわってほしいんだったら、自分で見せてください」
「じ、自分で…?」
「ええ、自分でエプロンを持ち上げて、さわって欲しいところを見せて?」
 戸惑って問い返せば、当たり前のことのように答えられる。自分ではしたなく布地を持ち上げ、勃ちあがったものをさらせと言っているのだと理解して、カアッと頬が熱くなった。
 恥ずかしがる方が恥ずかしい、と思う。けれど一度スイッチが入ってしまうと、どうしても恥ずかしさは消えなかった。いっそエプロンをかなぐり捨ててやりたい、と思ったけれど、『情人』のおねだりは聞かなければいけない。じりじりと焼かれるような羞恥を押し込めながら、虎徹はエプロンのすそをつかんで、そっとそれを持ち上げた。
 エプロンの下はもうなにも身につけていない。布地を持ち上げてしまえば、隠しようもなく欲望を滲ませたものがあらわになる。バーナビーにキスされ、ちょっとふれられただけで涎を垂らす、虎徹の貪欲さを示すあかし。
「こ…れで、見える、かよ……?」
「ええ、さわって欲しくてふるえてる、あなたのいやらしいペニスがよく見えます」
「っ……!」
 エプロン似合ってますよ、と低い声でささやかれる。させられている行為のおかしさを示すために吐き捨てるように言ったのに、いやらしく返されて腰がゆれた。恥ずかしくて、布地を持ち上げているその下もバーナビーの顔も見れない。そっぽを向いている彼には構わずに、バーナビーは虎徹のものに指を這わせた。
「んっ───」
「ここ、ちょっと広がってきましたね」
「してる、から…」
 先端の孔をくりっといじられて、痛みに近い快感に思わず目に涙を浮かべながらそう答えた。勃ちあがったものの先端にぽつりと開いた孔…奥に続く尿道は以前より少し広がってきている。バーナビーに言われて、あのブジーを使っているせいだった。
 言われた通り痛かったのは最初の数回だけで、そのうちに中をこすられる感覚が快感になった。ブジーを突っ込んでそっと回しながら外側を握ってこすりあげると、いままで感じなかった感覚がこみあげる。
 いつもは一人でしているが、一度バーナビーがいた時に、あの長い器具を奥まで入れられた。そちらから前立腺にふれられるのだと言われた通り、尻の中のいいところをいじられた時のような、漏れるような快感が強烈だった。
 いままで知らなかった快感を覚えさせられて、自分が作り替えられていくような気がした。虎徹のいまの生活の半分は、バーナビーに抱かれるための性行為でできている。彼が訪れるにせよ訪れないにせよ、彼のことを考えない夜はなかった。
「毎日?」
「毎日じゃねーけど…」
 先っぽばかりいじられて、つかんだエプロンの布をくしゃりと強く握りながらかすれた声で答えた。押し拡げるように孔の中に軽く指を入れられると、どうしても腰が揺れてしまう。その手で全体を握って激しくこすりたててほしいと思う。
 けれどバーナビーはじらするように先をいじるばかりだ。
「毎日してください。そうやって、僕のものだという証しを体につけてください。ここだけじゃない…もっといろんな場所を開発しましょうか?こっちも……」
「ああっ、ひっ……」
 すっ、とのびてきた手がエプロンの胸元に入り、直接乳首をつまみあげた。布越しではないバーナビーの指の感触にそこは待ち望んでいたようにツンと勃ちあがって、やや乱暴に扱われても、じんじんと快感だけを伝えてくる。
「ひ…ふ───」
 乳首と性器の先端を同時にくりくりといじられて、じわじわとふくれあがる快感と物足りなさに腰がくねる。きゅうっ、と乳首を強くつかまれて、痛みより快感にあえいだ。
「ここもいっぱい揉んで、舐めてこねて…クリップとか使って。そう…人前で服も脱げないように大きく育てて…」
「んなに、自分の印つけてえの?」
 快感と同時に腹の底から湧き上がるぞわりとした不快感を押し込めて、虎徹はからかうようにそう言った。バーナビーはきっと他につきあっている女にもそうやって印を刻むのだろう、とそう思った。全身にキスマークを付けて、自分に抱かれる時の癖を体に覚えさせて、他の男など目もくれないよう自分を刻みつける。男が当たり前に持っている所有欲。バーナビーはその相手が一人ではないというだけだ。
「そうですね。所有欲は強いみたいです。自分でもこうなるまで気付きませんでしたけど」
「社長、ってのは誰でもそうなんか、ね…」
 今まで見たことのある、所有欲の強そうな社長達を思い浮かべてそう言うと、バーナビーは失笑したようにくちびるを歪めた。それから虎徹の腰を抱いてくるりとお互いの体の位置をいれかえると、今度はやや命じる響きの強い口調で、口でしてください、とささやいた。
 なんとなくバーナビーが急にいらだち始めたように感じて、とまどいながらも虎徹は彼の前に膝をついた。バーナビーからは、エプロンを身につけたほとんど全裸に近い背中や尻が見えるだろうが、そのことは気にしないようにして彼のベルトをゆるめ、性器を取り出すと、音をたててそれを舐めはじめた。
 どうすればバーナビーが悦ぶのかはもうよく知っている。ここを舐めろ、こんな風にしろと、繰り返し教えられたから。その日とて彼は気持ち寄さそうに下腹をふるわせていたのに、なぜか途中で舌打ちして虎徹の髪をつかんだ。なにをするのかと眉をしかめて顔をあげれば、喉の奥に無理やり突き入れられる。
「ん、ぐっ……」
 口に余る大きさのものを無理やり喉の奥に入れられて、息がつまる。涙目になりながら必死に口を開けると、頭の後ろを押さえられ、腰を揺らして喉の奥を突かれた。まるで虎徹の口を性器に見立てたような、無造作な抽送。
「ん、んんっ……んっく……」
 舌を使うことなどできなかった。苦しくて苦しくて、生理的な涙が目からあふれてこぼれてしまう。それでもバーナビーが心地よさそうに息をつくと、感じているのだと思って嬉しかった。必死になって口を開け、せめて歯を立てないように彼の快楽に奉仕する。
「は───」
 びくびくと口の中でふるえるものが愛しくて、くちびるをすぼめて吸おうとすると、今度はそれを引き抜かれてしまう。出て行く時に上顎をこすられて背筋がふるえた。バーナビーは自分のものを引き抜いてしまうと、よくできましたとでも言うように唾液と彼のカウパーでべたべたになった虎徹のくちびるをぬぐってくれる。
 それから腕をつかんで無理やり立ち上がらされ、ぐいっと思い切り上半身をカウンターに押し付けられた。そうするとエプロンの紐が横切るだけの体をさらし、さらに腰をつきだすような体勢になる。けれどそれに羞恥心を覚える間もなく、さきほどまで自分が舐め回していたものを押し付けられてカウンターにしがみついた。
「んっ…」
 ぐいっ、とバーナビーの手が虎徹の尻をつかみ、無造作にそこを押し拡げた。粘膜の浅い部分が空気にさらされる感覚にひやりとした次の瞬間には、熱く濡れたものがなんの準備もなく、ぐっと中に入ってくる。
「あ───あ、んう…バニー…いきなりっ……」
「ちゃんとほぐれて…ぬれてますよ」
「やっ、あっ、あ……っ」
 小さく揺さぶられながら少しずつ奥に押し入ってこられて、カウンターをつかもうとした指がガリリと音をたてた。白い陶器でできたカウンターに傷をつけそうで、慌てて爪をひいて手を丸く握りこむ。
 食事を作りはじめる前にシャワーを浴びてジェルを塗りこめただけの場所は、少し潤いが足りない。ねじ込まれるものに中の粘膜が引きずられるような気がして身をよじる。バーナビーも動きづらいのか、舌打ちして前に手を回してきた。
「あああっ…!」
 舌打ちに血が下がるような心地がしたのに、エプロンの下に直接手を入れられて勃ちあがった性器の先端をぐりっと強めにいじられると、思わず歓喜の声が漏れた。そこに細く長いものをつっこまれたい、と反射的に思って小さく首を振る。
 そんなこと以前は思わなかったのに。いや…そもそもバーナビーと再会する前は、性的な欲求すら薄かった。それなのに今、虎徹は数日に一度(それも一度に何回も)はバーナビーに抱かれ、そうではない日も自慰をしている。それも、普通の行為ではない。バーナビーに命じられ、体をつくりかえていくような…その行為。
(作り替えられている)
(体を、バーナビーの所有物として)
(この体はバーナビーのためにあって、バーナビーを覚えて)
(彼がいなくても忘れない)
(バーナビーが訪れなくても)
(バーナビーがいなくなっても)
 その考えにぞっとした。体は熱いのに、手足がすうっと冷えていく。そうだ、バーナビーはいずれ虎徹に飽きて彼を捨てるだろう。愛人なんていっときのこと。女の体と面倒さに少し飽きたバーナビーが、物珍しさから好き勝手できる中年男を愛玩しているだけだ。
 飽きれば捨てられる。そうしたらもう虎徹はバーナビーのそばにいられなくなる。住んでいる世界が違うのだ。バーナビーは何十万ドルも平気で動かせる上流階級の人間で、虎徹はそのおこぼれに預かろうとするハイエナに過ぎない。
 バーナビーに会えなくなる。そしてそうなっても、この体は彼の痕跡を残し、彼にふれられるのを待って熱くふるえるのだ。バーナビーの所有のあかしを体中に刻み、ただそれをたどって自分を慰める────
「───他のことを考えないでください」
「う、あっ……!」
 ぐっと腰をつかまれて後ろから突き上げられ、奈落に落ちていくような思考が中断される。バーナビーは虎徹の耳にくちびるを這わせると、その美声を直接吹き込むようにしてささやいた。
「僕だけに集中して。ほら…ここに……」
「んっ……!」
 ぐっ、とつながった場所を指で押し拡げられて、体が跳ねた。バーナビーを受け入れて一杯いっぱいの場所に、軽く指が割り込む。
「うあっ…む、無理っ……!」
「無理やり入れたりしませんよ。だから集中して。僕だけを感じてください」
「ん、あっ……」
 体の中も頭の中もバーナビーでいっぱいなのに、彼はもっと自分でいっぱいになれという。これ以上はつらいと思うのに、その言葉に促されるように体全体がバーナビーを求めてざわめき出す。つかまれている腰も、シャツ越しの体温が感じられる背中も、吐息を寄せられる耳元も、なにもかもがバーナビーの気配だけに集中した。
「あーっ、あ、ああっ────!」
 全身が性感帯になったような心地がした。バーナビーが入ってくる気持ちよさにふるえて、出て行く時の空虚とこすられる感覚に啼く。くちびるからは馬鹿みたいに鼻にかかった母音しか漏れなかった。みっともないと思うのに、首筋に感じるバーナビーの吐息が心地よさそうで、煽られてこらえられない。いま虎徹はバーナビーだけを感じていた。体の中も外も心まで、全部彼のものだった。
「テーブル」
「っ……なに?」
 味わうようにゆっくりと腰を使いながらささやかれて、嬌声をあげるかわりに問い掛けた。それはただみっともない声をあげるのをこらえただけで、言葉の意味が脳に届いたのはバーナビーが次の言葉を続けてからだ。
「もっときちんとしたの買いましょうか。手配させますよ」
「い…らな……」
 さっき食事をしていた華奢なテーブルセットのことを言っているのだと気付いて、小さく首を振った。ちょっと食事をするだけならあれで充分だし、ちゃんと座りたいならリビングにいけばいい。それにこれ以上彼に、自分のために金を使わせたくはなかった。それは『無駄な投資』だから。
「僕の部屋ですから」
「おまえつかわな…俺、いなく…たら、無駄、なるだろ……」
 放っておけば勝手に買っていそうなバーナビーにそう言うと、なぜか一瞬彼は動きを止めた。自分の言ったことを拒絶されて機嫌が悪くなったのかと振り返ろうとすると、その前にバーナビーが声を立てて笑って虎徹の腰をつかんだ。
「───それもそうですね」
 そう言うと、次の瞬間からバーナビーは無言になって激しく腰を使いはじめた。パンパンと音をたてて突き上げられ、腰が浮いて、虎徹はただカウンターにしがみついて声をこらえるだけでいっぱいになってしまう。
 立ったまま激しく犯されてエプロンの布地に吐精した。その後、虎徹は寝室に移動させられて、ベッドの上で夜半過ぎまでずっとバーナビーにさいなまれ続けた。











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