愛人契約8 目を覚ましたのは、ほんのりと明るくなっていく空の光が差し込んできたからだった。気を失って落ちるように眠っていたからか、どうやら目覚めは早かったようだ。 気を失う前に受けたのは暴力とも言える快楽で、だからひどい気分になっていてもおかしくないのに、目を覚ました瞬間、虎徹はどうしてか幸福な気分だった。 いい夢でも見たのだろうか、と思ってその断片を探っても、それは思い出せない。ふわふわとした気持ちで目を開けると、すぐ目の前に秀麗な男の顔があって一瞬叫びそうになる。 「─────!」 バーナビーだった。いつも虎徹が起きる前に姿を消している男が、彼を抱きしめたまま眠っていた。少し青ざめた白い頬をさらして、すやすやと静かな寝息をたてている。 「……バニー?」 小さな声で呼んでみるけれど、当然返事はない。無防備な寝顔はすぐ近くにあって見たい放題だ。伏せられた長い金色のまつげも、彫像のように整った白い頬も、まぶたの綺麗な陰影も、ばら色のくちびるも、息が掛かりそうなほどすぐそばにある。 本当に綺麗な男だと思う。綺麗で、頭が切れて有能で、努力を厭わず、そして純粋で傷つきやすい。なにもかもを持っているのに、無心に眠るその顔には、どこかさみしい子供の面差しが残っている。 ひどいことされた、という気もしたが、嫌うことなどできそうもなかった。どうしてそんなことをしたのか、と考えればそれはきっと子供の癇癪と同じだろうと思う。気に入っていようがなかろうが、おもちゃを取り上げようとすれば子供は癇癪を起こして泣く。虎徹はやり方を失敗してしまった。おもちゃなんて、そっと隠してしまえば気付かれない。そう…五年前にそうしたように。 「俺、やっぱおまえに会うべきじゃなかったなあ」 そっとバーナビーの髪にふれながら、しみじみと虎徹はつぶやいた。ずっとふれたかった髪。遠いあの街で暮らしていた時、金髪というだけで思わず目で追ってしまった。会いたくて会いたくて、だけど会うべきではなかった。ずっと離れたままでいるべきだった。 それは五年前とは違い、今度はバーナビーのためにではない。虎徹自身のためだった。バーナビーは昨夜、あなたは僕のものだと言ったけれど、あたりまえだがバーナビーは虎徹のものではない。彼はすでに他の誰かのものだ。 バーナビーのためを思って自分から手放したはずだった。彼は虎徹の思惑通り結婚して、浮気はしていても公認のもので、それなりにしあわせだったはずだ。すれ違いがあるようだけれど、バーナビーは本気で妻を愛している。きっとそのすれ違いも長い夫婦生活の中で解決していく、起伏のひとつにすぎないのだろう。 五年前虎徹が思った通りになっている。自分自身が望んだことだ。望んで、手を離したはずだ。それなのにもう一度ふれあってしまうと駄目だった。それが自分の本当の望みではないと、思い知ってしまったから。 「俺、もうだめだわ……」 自分をごまかして、ただの愛人なんだからと言って、楓のため金のためなのだとそう言い聞かせて───だけど今となってはもう、虎徹はバーナビーから離れられる気がしなかった。 バーナビーは変わっていない。虎徹を金で買って所有して、傍若無人に見える行為をしても、妻がいながら平気で愛人を囲うようなことをしていても、根本はまったく変わっていなかった。 純粋できれいで、頭がいいのに『生きる』知恵が足りなくて、放っておけないさみしがりやの子供…かわいくてかわいくて、そばにいて抱きしめてしまいたくなる。おまえは一人じゃない、おまえを心底必要としてる人間がここにいる、とそう言ってやりたくて。そんな必要なんてないのに。バーナビーにはもっと他にたくさん、彼を支える人間がいるのに。誰よりも愛している妻がいるのに──── 虎徹はふと、バーナビーのはめている指輪に目を止める。朝日にチカリと光を返す、銀色のそれ。永遠を誓ったリング。それは、彼が誰かのものだというあかしだった。 虎徹はその輝きをぼんやりと眺めた。小さなプラチナが踏み込むことを拒絶している気がした。かつてのバーナビーもこんな気持ちだったのだろうかと思う。虎徹のしている指輪を見て、彼もこんな風に胸を痛めたのだろうか。虎徹の指輪と、バーナビーの指輪とでは少し意味合いが異なるのだけれど。 自虐のように胸の痛みを確認しながら、虎徹は今度はじっくりとその指輪を見つめた。どうというところのないデザインだ。ひねりも加わっていないまっすぐでシンプルなプラチナ。端が少しだけ浮き上がって、それがラインのようになっている。一つだけ、目につかないほど小さなダイヤが埋まっていた。 はじめてじっくりと見たそのデザインに、虎徹は眉を寄せる。中途半端なそれはバーナビーにふさわしくない気がした。 彼が身につけるならもっと流線的なデザインのものか、それともシンプルでもダイヤの輝きが見えるようなものか…いっそ色のついた石をいくつか埋め込んだものか…… 安っぽいとまでは言わないが、バーナビーの選ぶ指輪には見えなかった。そしてそれは───虎徹のはめている指輪に非常によく似ていた。 虎徹は無意識に自分の左手の薬指にふれた。そこには十五年以上ほとんどはずしたことのない指輪がはまっている。シンプルで小さなダイヤを埋め込んだ…バーナビーのしているものとそっくりな指輪。 まさか、と思う。まさかそんなはずはない。たしかにあの最後の夜、指輪を外してバーナビーに見せたけれど、それとそっくりな指輪を彼がはめる意味がどこにある。それに、これはバーナビーが愛する女性と結ばれて交換しただろうものだ。たまたま似てしまったにすぎないだろう。きっとバーナビーは虎徹のしている指輪のデザインなど覚えてはいない。 そう思うのに、あまりにそっくりに見えて、違うということを確認したくてたまらなくなった。虎徹はそっとバーナビーの手にふれると、彼を起こさないよう気をつけながら、ゆっくりゆっくりと指輪を彼の手から外した。かすかなくぼみ残して、それはバーナビーの指から抜ける。 自分の手の中に転がった指輪を、虎徹はもう一度じっと見る。太さも少し浮き上がったラインも、ごく小さなダイヤのカットの具合さえ同じに見える。虎徹は自分のものとは全く違う、ということを確かめるために、その指輪の内側をのぞきこんだ。 そしてそこに刻まれていた文字に息を呑む。 『B&K』 虎徹がはめている指輪の内側にある『K&T』の文字、それによく似た文字で、そこにはその三文字が刻まれていた。 「な……」 思わず声が出そうになった。K…Kってどういうことだ、と思う。バーナビーの妻の頭文字はCだったはずだ。必死に思い返してみても、ミドルネームにもどこにもKの文字はない。それなのに指輪にその文字が刻まれているのはなぜなのか。どうして、バーナビーの結婚指輪が虎徹のものとそっくりなのか。 「なん、で────」 「ん……」 その時、バーナビーが小さく寝返りを打って、もう一度虎徹を抱き込もうとした。その腕から慌てて逃れ、指輪を元通りバーナビーの指にはめてしまうと、虎徹は逃げるようにしてベッドから這い出した。 そして混乱を抱えたまま急いで身支度を整え、バーナビーが起き出す前にマンションを後にしたのだった。 虎徹は早朝のシュテルンビルトの街にふらふらさまよい出し、まだ病院の面会時間ではないことに気付いてカフェで時間をつぶした。一人でコーヒーを飲みながら、ずっとくるくると指輪をいじっていた。友恵と買った指輪だ。自分たちだけのものだというあかしにイニシャルを入れた。 友恵の指輪は棺にいっしょにいれてしまった。だから虎徹のものと対になる指輪はもうこの世にはない。友恵があの世に持っていったはずだった。 だけどこれとそっくりな指輪をはめている人間がいる。 自分と虎徹のイニシャルを刻んで、心臓に近いその指に。 (なんで────) その理由を虎徹は思いつかなかった。バーナビーにはちゃんと愛する妻がいる。けれど偶然だと思い込むこともできない。その指輪はあまりにも似すぎていた。その上、あの最後の夜に虎徹は彼に指輪を見せたのだから。 ぐるぐると考え続けるとありえない変な期待をしてしまいそうで、虎徹は面会時間になると同時に、カフェを出て病院に向かった。虎徹が病室に入った途端、楓はパッとベッドの上で顔を上げ、病人とも思えない興奮した声をあげる。 「あ、お父さん!ちょっと、どうして昨日電話に出てくれなかったの?わざわざ看護士さんに頼んで、外に出て電話したのに」 「電話…?」 楓にそう問われて慌てて懐を探ったけれど、携帯電話はポケットに入っていなかった。出てくる時混乱するあまり置いてきてしまったらしい。そして昨夜はと言えば帰るなりあんなことになって、電話が鳴っていても気付かなかったに違いなかった。 「ごめん。ちょっと昨日…その、仕事で電話おいてってて」 「もう…仕事じゃしょうがないけど!」 「なんかあったのか?」 楓の様子を見るに悪いことではないと思ったけれど、わざわざ看護士に断って外に出てまで電話をかけてくるようなことがあったのかと、心配になってそう尋ねた。すると楓は興奮した顔に嬉しそうな笑みを浮かべて、高い声でその理由を告げる。 「そう、昨日ね、お父さんが帰った後にバーナビーさんが来てくれたんだよ!」 「え……?」 バーナビーがここに?と思って虎徹は言葉を失う。彼には楓のことなどひとことも話していない。病気のことどころかいまどこにいるのかも、そもそも名前すら口に出さなかった。なにも尋ねてこないバーナビーはそのことに興味がないか、きっともともと暮らしていた街か田舎に置いてきたのだと思っているだろうと推測していたのに。 それなのに、病院に来て楓に会った?バーナビーは楓のことを知っていたのだろうか。シュテルンビルトに来ていることも、病気のことも…? 「お父さん私に黙ってたでしょ?もー、ちゃんと話してくれたらよかったのに!」 楓はほがらかに笑うと、虎徹にさらに疑問を深めさせるような言葉を続ける。 「アポロンメディアの事業で、この病気の支援をしてくれてるんだって?バーナビーさん、お金のことなら心配いりませんから、しっかり病気を治してくださいっていってくれて…」 「えっ…?あ、うん……アポロンメディアが…」 アポロンメディアが?金を?とわけもわからないまま、虎徹は楓に話をあわせて適当に相づちをうつ。金を出してくれたのはバーナビー個人ではなかっただろうか。事業などではない。それは、虎徹が彼の愛人になる対価だったはずだ。 わけがわからなかった。なぜバーナビーは楓のことを知っているのだろう。虎徹は金を受け取って病院に支払いをすませ、すべてことはすんでいるのに、なぜわざわざ楓に会いにきたのだろう。 「私お父さんがなんの仕事してるのか、すっごい心配してたんだから。ちゃんとした服着なきゃいけない、ってバーナビーさんの関係だったんだね。広報?とかだったら見た目大事だもんね」 「あ…ああ、うん…だから、バニーが服を用意してくれて…」 「アポロンメディアは大きい会社だから、私みたいな子を助ける慈善事業とか大事なんだよね。なんかお金出してもらっていいのかなって思ったけど、会社としても意味のあることなんだって説明してもらって、安心しちゃった」 楓は安心し切った顔でほがらかに笑った。病魔におかされているとは思えない、生命力にあふれた笑みだった。もうなにも言わなくなっていたけれど、彼女は父がどうやって金を用意したのか心配していたのだろう。そしてそれが『事業』として差し出されたと聞いてむしろ安心した。相手にとって利用価値があるなら、受け取っても構わないのだと思ったようだった。 普通なら利用されている、と不快に思うところだが、この娘はただ人の慈悲にすがるより、そうして意味のあることだと言われた方が納得できたらしい。 「お父さんがんばって、アポロンメディアさんはかわいそうな娘を助けてくれた恩人です!って宣伝してきてね。ちゃんと仕事しなきゃ!出して貰ったお金の分は、アポロンメディアさんのイメージアップに貢献しなきゃね!」 その『かわいそうな娘』は、ちっとも不幸そうではない顔で笑って、そう言ったのだった。 その後も楓は、ずっとバーナビーがなにを言ったのかを話し続け、しまいに彼がいまでもどんなに格好良くスマートなのかを熱弁しはじめた。そんな娘の言葉をさえぎて、虎徹はちょっと用を思い出したからと言って病院を出た。 別に娘の話に辟易したわけではない。楓から聞いた話の整理がつかなくて、できればバーナビーと会って話したかったのだ。けれどいまさらマンションに戻ったところで、バーナビーはもういないだろう。アポロンメディアに行くべきかと思ったけれど、そこにもバーナビーがいるとは限らない。連絡を取って…と考えをめぐらせて、そういえば携帯を忘れてきたのだと思い出す。 どのみち一度マンションに帰るか…と思って、虎徹は朝来た道を戻っていった。マンションのエントランスをくぐると、コンシェルジュがハッと顔を上げる。いつもと違う帰宅時間を疑問に感じたのかと思ったが、どうも様子が違った。 「鏑木様」 いつも落ち着いた感じのコンシェルジュが、やや慌てた風に虎徹のもとに駆け寄ってくる。彼は、いいとことに来てくれた、とでもいうように、すがりつくような口調で言い募った。 「その…ブルックス様の秘書の方が、社長と連絡がとれないとおっしゃってまして…昨晩こちらにいらしてから、部屋からでていらっしゃらないはずなのですが」 「えっ、バニーが?」 反射的に時計を見ると、昼を回ってずいぶんたっている。とっくに会社に行っているだろうと思ったのに、まだこのマンションにいるのか。あれからずっといたのだとすると、もう半日どころか一日近くこのマンションから出ていないことになる。バーナビーがそんなに長い間、ここにいたことなどないのに。 「ええ…秘書の方はこちらに登録されておりませんから、お通しするわけにいかないのです。内線での連絡にも応じていただけませんし、清掃なども入らないよう内部のパネルから指示がきていまして」 倒れてでもいらっしゃらないか、確認しようか迷っていたところなのです、と言われて虎徹はサッと緊張した。清掃を断っていると言うから、あれっきり倒れているということはないだろうが、電話にさえでないなんてなにかあったに違いなかった。 「わかりました!確認して秘書さんに連絡させます」 そう言うと、虎徹は青ざめながら急いでエレベーターに乗り込んだ。いつもはすぐにつくように感じる高速エレベーターが、ひどく遅く感じる。最上階についた途端飛び出して、ロックを解除して部屋に飛び込んだ。 「え……?」 玄関ホールに入った途端鼻についた匂いに、虎徹は顔をしかめる。その匂いの源を辿るように廊下を歩いていくと、寝室にたどり着いた。そこが発生源だということを裏付けるように、扉を開いた途端どっとその匂いがあふれかえる。 「うっ…わっ……」 鼻につくその匂いはアルコール臭だ。空調が作動しているし、おそらく高いワインかなにかなのだろう、不快な匂いではない。けれど、どこかにたっぷりこぼしてしまったのか、と思うほどその匂いはかなり強かった。 「……バニー?」 スクリーンの降りた窓辺の方、ワインボトルが乱立するローテーブルの向こうのソファに、うずもれるようにしてバーナビーが転がっている。昨晩虎徹を抱いたまま眠ってしまった、あの時のシャツのままだった。 まさか具合が悪くて倒れているのか、と思って駆け寄ると、明らかに酔いを宿した顔でゆるりと顔を上げる。 「こてつさん……?」 舌足らずな声とうるんだ瞳で、バーナビーがただ単に酔っているのだとわかった。テーブルに乱立している酒を全部飲んだとすれば相当の酔っ払いだが、それならばむしろ連絡が取れなかった理由がわかって安心する。倒れていたわけではないのだ。 虎徹は息をついてボトルとグラスをバーナビーから遠ざけると、彼をのぞきこんでその顔色を確認した。 「おまえ酒の匂いすげえ…ずっと飲んでたのかよ。仕事は?秘書の人が探してるって。コンシェルジュも心配して────」 「黙って」 バーナビーは半身を起こすと、虎徹の頬にふれてそう言った。かがんだ虎徹の顔をなにかを確認するかのようになぞり、ふいに首筋にがつりと抱きついて彼を引き寄せる。 「うわっ、ちょっ…!」 「こてつさん、こてつさん、こてつさん……」 バランスをくずして彼の腕の中に倒れ込んだ虎徹を、バーナビーはぎゅうぎゅうと抱きしめて何度も名前を呼ぶ。部屋の中以上に、バーナビー自身からはものすごい酒の匂いがしている。彼の体から立ち上るアルコールで酔いそうなほどだった。 「か…えでに会ってきた」 ソファに一緒に転がってバーナビーに強く抱きしめられながら、つぶやくように虎徹は言った。虎徹はいまだにバーナビーが楓に会いにきたという事実を、心の中で整理できていない。どうしてバーナビーはそのことを知っていたのか。なぜ、楓を個人的にではなく社会的に納得のいく方法で助けてくれようとしているのか。 わからなかった。彼の身につけていた指輪のことも、妻との電話のことも、そもそも自分を愛人にした理由もなにもかも。 「昨日おまえが来てくれたって。そんでアポロンメディアが治療費出してくれるって…」 「さっさと言ってくれればよかったんですよ!」 バーナビーは虎徹の言葉を聞くと、彼ごとガバッと体を起こして叫んだ。いきなり起き上がって酔いが回ったのかふらふらしながら、それでも酒に焼けた声で続ける。 「いまアポロンメディアはNEXTに関する事業の支援をしてるんですから!ヒーローアカデミーもそうですし、能力の研究やNEXTであることでおきる弊害も解消できるように手を差し伸べてるんです」 あなたは知らないでしょうけど、と吐き捨てるように言って、バーナビーは酔った目ですぐ近くの虎徹の顔を睨みつける。怒りを孕んだ目に至近距離で見つめられたけれど、どうしてか虎徹は少しも怖いとは思わなかった。綺麗な顔に浮かぶ怒りは本物で凍りつくほどなのに、酔っぱらった彼はどこか子供のようだった。おいていかれた子供が、癇癪を起こして泣いている。 「楓さんの病気の治療費なんて、慈善事業の一部として簡単に出せます。あの病気の治療には業界が注目していますから」 バーナビーは虎徹の腕をつかんで立ち上がると、ぐいぐい引っ張って彼をベッドに連れていく。虎徹をベッドに乱暴に押し倒してのしかかりながら、彼のシャツの胸元をつかんで顔を歪めた。 「言えばよかったんだ。こんな目にあわされる前に!僕なんかに我慢して抱かれて好き勝手される前に!」 「───バニー…」 その叫びで、虎徹が黙って抱かれることでバーナビーを傷つけていたのだと知った。愛人と呼び、この部屋で飼って、好き勝手抱いて、過去のすべてを消していくかのように行為を重ねた。恋人だった時のことなどなかったようになっていくのに、傷ついていたのは虎徹だけではなかった。 「バニー…ごめん、俺……俺、さ……」 バーナビーに楓のことを話せなかった。金を貸してくれと言った虎徹に、彼が理由を聞いてこなかったせいでもある。バーナビーに同情されて、あわれみの視線を向けられたくなかったということもある。けれどそれ以上に虎徹は、バーナビーに自分より家族を選んだと思わせたくなかったのだ。 虎徹はバーナビーより家族を選んだわけではない。そんなのはどちらも選べない。ただバーナビーの未来のために離れたほうがいいと思っただけだ。気持ちを押し付けるつもりはないけれど、それだけは誤解されたくなかった。捨てたくて捨てたわけじゃない。離れたくて離れたわけじゃない。虎徹が望んだのは、バーナビーの幸福だったから。 「────ちがう」 虎徹のシャツの胸元に顔を埋めて、低い声でバーナビーがささやいた。それに自分の内心を否定されたように感じて、虎徹はびくんっと肩を跳ねさせた。けれどバーナビーは小さく首を振って、自分の言葉の方を否定した。 「ちがうごめんなさい聞かなかったのは僕だ。ちゃんと聞いてあなたに手を差し伸べていれば、あなたは昔の相棒として僕をあつかってくれたかもしれないのに」 バーナビーは眼鏡をしたままの顔を虎徹のシャツに押し付けて、だけど怖くてしばりつけたくて脅すような真似をした、ごめんなさい、とそうささやいた。そして、だけど聞きたくなかったんです、と続ける。聞けばきっと力になりたくなってしまうから、とそんな風に。 「だって金を貸して感謝されて?それでどうなるんです。どうせあなたは僕のことなんて忘れた。忘れてた。それでもそばにいてくれとたのんだら、きっとあなたはいやいやでもいてくれる。金のことがあるから…」 あなたは楓さんのためならなんだって我慢するでしょう?と、バーナビーは虎徹の胸元から顔をあげ、目を見つめながらそう言った。少し歪んでしまった眼鏡の向こうで、緑の瞳は涙でうるんでいた。酒に酔ってるからではない、こぼれそうに輝く瞳。 「だったらいっしょだと思った。おどして、体だけでも奪って、それならあなたの一部だけでも僕のものになるから」 そう言ってくしゃりと顔を歪める。泣き出す寸前の子供みたいな顏。結婚もして会社の社長をしている三十歳の男とは思えない表情だ。だけど綺麗で、かわいくてかわいそうで抱きしめてやりたくなる。 「いかないで」 なにも言えないでいる虎徹をぎゅっと抱きしめて、絞り出すような声でバーナビーは言った。すがられている。五年前置いていってしまった大切な大切な存在に、今度こそどこにもいかないでとすがりついて泣かれている。 「おねがいいなくならないで。おねがいですおねがい。ぼくの前から消えたりしないで。じゃないと、ぼくは────」 その抱擁を拒める人間がどこにいただろう。捨てたくて捨てたんじゃない。置いていきたかったわけもない。ずっと会いたかった。抱きしめたかった。腕の中に抱きしめて、やさしく髪を撫でてやりたかった。つらいことなんてなんにもないように、泣かなくてすむように、しあわせに──── 「こてつさん、こてつさん、こてつさん……」 虎徹が腕を回してぎゅっと抱きかえすと、今度こそハタハタと涙をこぼしながらバーナビーは何度も名前を呼んだ。 「います…よね?あなたはここにいますよね?本物ですよね?」 そう言って存在を確認するかのように、ぎゅうぎゅうと虎徹を抱きしめてくる。そして虎徹の肩口に額をくっつけて、顔が見えないまま小さな声がささやいた。 「───すきです」 大切そうにささやかれたひとこと。それに息が止まる気がした。腹の底からじんわりとなにかが込み上げてくる。嬉しさと痛みと申し訳なさと、そしてやっぱり隠せない嬉しさと。 「あなたがすきです。あいしています───ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい……!すきです。すきなんです。いかないで…いかないで」 すがりついてくるバーナビーの背を抱きかえしながら、どうして謝るんだろう、と虎徹は思った。謝ることなんてない。バーナビーはなにも悪いことなどしていない。好きだと言われて虎徹は嬉しかった。バーナビーが結婚しているという事実も、自分の立場も全部吹き飛んでしまうくらい嬉しかった。 そしてそれと同時に胸が締めつけられるように痛んだ。バーナビーはずっと虎徹を好きでいてくれた。再会した途端、卑怯な手をつかってでも離したくないと考えるほど、想っていてくれた。それなのに虎徹は五年前彼を置いてきたのだ。彼のことを思ってのことだった。だけどそれは、五年経ってもなおバーナビーを傷つけ続けている。 「ごめんな、バニー」 「こてつさん───こてつ、さん……」 「ごめんな」 虎徹を抱きしめたまま、酔いが限界に達したのか、バーナビーは次第に口調をにぶらせ、うとうとと眠りに落ちていった。その顔から眼鏡を外してやって抱きかえしながら、虎徹はごめんな、と何度も繰り返しささやき続けていた。 終わりの日があって、終わらせたとと思った夜があって 一人がってに終わりを決めて だけどそれは 誰かにとっては終わりの時ではなかったかもしれない だけどそれは 本当の終わりではなかったのかもしれない 終わった瞬間に始まるものがある その営みこそが永遠と呼ばれるのか──── バーナビーが本格的に眠ってしまうと、虎徹はそっと起き出してとりあえずコンシェルジュに大丈夫だということだけ伝えておいた。起こして秘書に連絡させた方がいいのだろうか、と思ったけれど、あの状態で無理に起こしても意味がないだろうとやめておくことにする。 バーナビーが眠っている間、虎徹は落ち着かずにリビングにいってみたり、起きてきた時のために用意しておいてやろうかとみそ汁を作ったり、寝室に戻ってバーナビーの寝顔を眺めていたりしていた。 眠るバーナビーを見て彼の言葉を思い出し、嬉しいような痛いような複雑な気持ちに陥った。彼が好きだと言ってくれたことは嬉しい。だけどそれは冷静に考えれば酔っ払いのざれ言で、嘘だとは言わないがすでに過去のことではないだろうか。やけぼっくい、とでもいうのだろうか。きちんと別れないままで離れて、だから再会した時に少し気持ちが再燃したにすぎないのではないだろうか。 なぜならバーナビーは四年も前に結婚していて、そして電話越しに妻に愛をささやいていた。そうだ、彼は妻を愛しているのだ。虎徹のことをいまでも少しは好きでいてくれているのは本当だとしても、妻と彼のことは別の話───なのかもしれない。 そこまで考えて、バーナビーがしている指輪のことを思い出す。彼の結婚指輪は、虎徹のそれとそっくりだった。その上、内側に妻のものではない…虎徹のイニシャルが刻まれていた。 「バニー、それ…なに?」 寝室のベッドの脇に座り、眠るバーナビーの指を見つめて虎徹はそう口に出した。いっそ彼が目覚めたら聞いてみようか。なにを勘違いしてるんです、と笑われてもいい。どうして自分と同じ形の指輪をしているのか、そこに彫ってある文字の意味はなんなのか。それは妻と愛を誓ったものではないのか─── バーナビーの行動のいろんなことに対して整理がつかなくて、虎徹はまた寝室を出てうろうろした。ワインの空き瓶は片づけてしまったし、みそ汁もつくってしまったし、他に食事といってもあの様子ではまたもになにか食べれるとも思えない。掃除でもしようにも掃除道具がないし……とまったく落ち着かずに、結局いつものようにリビングのソファに座って、意味もなくテレビをつけた。 そしてそこにふいに現れたテロップに、ぎょっと目を見開く。 『新メディア王バーナビー・ブルックス・Jrとスーパーモデル、キャサリン・ガードナー離婚か!?キャサリンの単独会見!!』 「はっ?」 思わずへんな声が漏れた。離婚?バーナビーとキャサリン…彼の妻が離婚?なんの話だ、と思ううちに、記者に囲まれたテレビ画面の中、雑誌やテレビで観たバーナビーの妻の姿が映し出される。金髪碧眼、モデルらしいほっそりとした肢体にシャープなスーツをまとった、絵に描いたような美女が記者達の前に立つ。 彼女は堂々とした態度で記者達を見渡すと、どこか楽しそうに見える表情できっぱりと告げた。 『バーナビーと私は、昨日付けで離婚しました。お互い納得の上のことです。慰謝料などの協議もありません。書類上、すでに私たちはまっさらな他人です』 キャサリンの冷静な声に、なぜ、いつから、アポロンメディアの株は、といくつもの声が怒号のように飛ぶ。その間を縫うようにたまたま通った声が、お二人は理想的なカップルだったと思いますが、原因はバーナビーさんの浮気癖ですか?と尋ねた。それに彼女は細い肩をすくめ、画面に向かって───実際には現場の記者達に向かってうつくしくほほえんだ。 『浮気が原因なんてありえないわ。以前から何度か言っているけど、それは承知のことよ。私たちはたしかに理想的なパートナーだったわ。そうね、ベッド以外では』 キャサリンの言葉に、会見会場がどよっと揺れる。記者達の質問がいくつも飛んだが、もはや怒号のようになって聞き取れないありさまだ。檀上の彼女は静かにしろと言うように手をふると、おもしろそうな顔をしてさらりと言った。 『セックスの相性が悪かった?ある意味そうかもしれないわね───私はレズビアンなの。男とはセックスしないわ』 「はっ…?え、はあっ?」 テレビの前で、虎徹はリモコンを持ったままおたおたしてしまった。意味がわからない。レズビアン?男とはセックスしない?だって彼女はバーナビーの妻だった。彼と結婚した女性なのだ。理想的な夫婦に見えていた彼らが、セックスをしていないというのはいったいどういうことなのか。 いやセックスしない夫婦がいてもいいが、彼女が言っているのはおそらくそういうことではない。彼らは、けして愛しあって結婚したわけではない、という意味だ。虎徹のその考えを裏付けるように、画面の中でバーナビーの妻…キャサリンがさらに言葉を重ねる。 『バーナビーとベッドを共にしたことは一度もない。私たちは契約として結婚したの。私は私とのことを公にしたくないと言った恋人との仲を隠すため。彼は……どうなのかしら。結婚についてわずらわされたくなかったのかもしれないわね。あるいは私のように他の存在を隠したかったか……これ以上は彼のプライバシーになるから言わないわ。今日は大事な用があるとかで一緒には会見しなかったけれど、彼からもいずれなんらかの発表があるでしょう』 そう言って、話は終わりだと言うように手を振ると、彼女はあっさりと檀上を去ってしまった。記者達の質問はまだ山ほど続いていたが、まるで振り返りもしない。思わず数秒…数十秒も虎徹は動きを停止してテレビ画面を見守ってしまっていたが、やがて彼女が戻ってこないのを察したのか、場面は切り替わってしまった。 驚きましたねー、などと言うコメンテーターを見てハッとし、虎徹はリモコンを放り出してリビングを飛び出した。そして起こさないように、とさっきまで思っていた気遣いを吹き飛ばして、ベッドの上のバーナビーを揺さぶると、大声で叫ぶ。 「バニー!おいちょっとバニー!ばにいいいっ!」 「こ…てつさん……?」 まだ濁った目をあけてこちらを見たバーナビの胸元をひっつかみ、無理やりベッドの上に起き上がらせてまた叫んだ。 「おまえ、起きろよ、酔っ払い!俺の話を聞けッ!」 「な…んなんですか?叫ばないでください……頭が痛い」 「なにって…え、なにって…!て、テレビが……!」 問い返されて、思わずうっとつまった。思わず走ってきて叫んでしまったが、なにをどう尋ねたらいいのか。そもそもいったいあれはなんだったのか。 「だって、あの、おまえの奥さんが離婚会見とかしてるんだけど、その…どういうこと?」 「ああ、そういえば今日会見するから来いと言われた気がします…」 頭が痛むのか、体を起こして額をおさえつつ、さらりとバーナビーはそう言う。しばらくそうしていてやっと顔をあげると、力なく(精神的な意味ではなくおそらく頭痛のせいで)ほほえんで静かに言う。 「最初から契約結婚なんです」 「けいやく…?」 あまりにあっさりと言われた耳に馴染まない言葉を、虎徹は鸚鵡返しにつぶやいた。言葉の意味はわかるが、ここでその単語が出てくる意味がわからない。いや、わかるけれどそんなことは到底信じられなかった。 「ええ、僕と彼女との間には恋愛感情は少しもありませんよ。セックスしたことも一回もない。ただお互い結婚した方が都合が良かったから、そうしただけです」 「え…だっておまえ、自分で選んで……そ、それに電話で、愛してるって……」 うろたえてしどろもどろにそう続けると、バーナビーは眉を寄せて虎徹を見た。 「聞いてたんですか?」 綺麗な顔がしかめられて、それに思わずごめんなさいっと言ってしまいそうになったが、バーナビーが顔をしかめたのは単に頭痛が理由だったようで、彼は別に虎徹を責めることはなく、むしろはにかんでうつむいてしまった。 「あれは───その、彼女にあなたのことを気付かれたみたいで、それで……」 バーナビーはまた酔いが戻ってきたかのように真っ赤になって、それから意を決したように顔をあげると、ベッドの上に乗り出すように手をついていた虎徹の顔を見て、きっぱりと告げる。 「つまり、あれはあなたのことです」 「は───?」 予想外の言葉に、相当間抜け面をさらしてしまったと思う。本当に、少しも予想していない言葉だった。そんなこと夢想すらしていなかった。 愛しているんです、と電話に向かってバーナビーが言った、あの必死な言葉。心から絞り出すような悲痛な声。妻に向けられていると思っていたあれが、自分に向けられていたものだったと…?あれを聞いて虎徹はもうだめだ、とそう思ったのに、一晩中泣いたのに、それが全部勘違いだったというのか。 (だって愛してるって) (あんな、必死に────) その意味がようやくストンと腹の中に落ちた途端、カアッと頬が熱くなった。バーナビーはあんな風に必死に、虎徹のことを愛していると言っていたのか。それも、自分の妻に向かって。契約結婚だとしても、いやだからこそごく親しい他人に、虎徹への気持ちを吐露していたのだとすれば、それはいったいどんなプレイだというほどに恥ずかしい。 恥ずかしい。そして嬉しい。あの時の嫉妬の反動で、虎徹の脳内はもはやあの時のバーナビーの声でいっぱいになる勢いだった。 「あなたがいなくなって」 赤くなった虎徹を見てどう思ったのか、まだ少し酔いの残るとろんとした目でこちらを見つめて、バーナビーがそっとささやく。その手が頬にふれてくるのを虎徹は拒まなかった。その愛しげな手をどうして拒む必要があるだろう。バーナビーが自分を…自分だけを見ている。陶酔すべきその場面で、拒むことなんてなにひとつない。 「僕はあなたを探して探して…みつけたんです」 「み…見つけた!?なんで、どうやって?」 「簡単です。興信所をつかってあなたの実家に届いた郵便物の消印を調べさせて…あなたは名前を隠していなかったから、住んでいる街さえわかれば探すのはたやすかった」 五年間、バーナビーは自分の消息などまるっきり知らなかっただろう、と思い込んでいた虎徹が驚いて声をあげると、彼はあっさりとその手口を暴露してきた。 そういえば実家に帰ることはなかったが、手紙や物を送ることはあった。さすがに住所を書くようなことはしなかったけれど、消印のことまでは気にしてはいなかった。外側に名前は書かなかったはずだが、興信所が実家の郵便物をすべてチェックしていたとしたら、名前のない郵便物こそ不審なものだっただろう。 「おまえな、それはもはや犯罪だぞ……」 「だって、僕はあなたに会いたかったんです。会いたかったんだ!」 「────」 小さく苦情を言ったけれど、強い口調でそう返されてなにも言えなくなる。バーナビーは虎徹の手をつかむと、酔いが残っているせいなのかうるんだ瞳でじっと見つめてくる。すがるようなその瞳に落ち着かなくなった。綺麗なグリーンアイズ。五年前のあの頃と同じように、まっすぐに虎徹を撃ち抜く。 「僕は何度もあなたのいる街にいって、あなたの姿を見て…でも会えなかった。あなたは楓さんと幸せそうにしてて、僕なんかいなくても…いない方がいいんだって思って」 「俺に…会いにきた?」 明かされた事実に息を呑んだ。 もしかしてあの街にいた時追いかけた金髪の青年は、見間違えなどではなくバーナビー本人だったのだろうか。金髪だと言うだけで目で追ってしまってはいたけれど、何度かは本当に本人と見間違えるほどそっくりに見えていた。あれはそっくりな他人ではなく、本人だったのだろうか。 五年間一度も会っていないと思っていた。バーナビーは結婚してしあわせになって、自分のことなどもう忘れているのだと思っていた。会いたくて会いたくて、まぼろしを見るほどに夢想したのなんて自分の方だけだと、そう思っていたのに。 「あの頃の僕は…重かったですか?あなただけしか見ていなかった僕は」 絞り出すようにそう言って見つめてくる瞳は、今だって虎徹しか見ていない。なにも変わっていない、と思う。けれど変わっていないわけではないのだろう。バーナビーはいまもまっすぐ彼を見つめていて、だけどそれはもう盲目的なそれではない。視界の外に他のなにかがあるのを知っていながら、それでもなお虎徹を見ていてくれる目だ。虎徹しか知らないわけじゃない。たくさんの風景の中から、バーナビーは虎徹だけを見る事を選んだ。 「重かった…わけじゃない。けど、おまえは俺ばっかだったから」 途切れ途切れにそう言うと、バーナビーはそうですね、と苦く笑った。その笑みがひどく大人っぽくて、虎徹はどきりとする。五年前は見せなかったその表情に、変わらないと思っていたものに変化を見つける。 「僕はあなたに依存しすぎていたから。だから一人で立てるようになれば、あなたが帰ってきてくれるんじゃないかと思ってがんばって、でもだめで」 「がんばって…KOHになったもんな。見てたよ、ちゃんと。俺がいなくても大丈夫だって思った」 虎徹がそう言うとバーナビーはくしゃりと顔を歪め、ぜんぜん大丈夫じゃなかったです、とそう言った。泣きそうなその顔に胸が痛んだ。 自分がいなくなってもきちんとヒーローとしてやっていけているバーナビーに、虎徹は自分がいなくても平気なんだと思って、誇らしいような悔しいような気持ちに陥っていた。それが彼の強がりだったなんて少しも気付かなかった。虎徹に見せるために、バーナビーが頑張っていたなんて思いもせずに。 バーナビーはそんな虎徹を責めるように、すがるようにそっと彼を抱きしめてきた。ベッドの横に立って乗り出していた彼は、バランスを保てずにバーナビーの腕の中に倒れ込むような形になる。そんな彼の体を支えるようにぎゅっと抱きしめて、いっそ楽しんでいるかのようなやわらかな声でバーナビーは言葉を続ける。 「だから今度は、あなたが言った通りに結婚したら戻ってきてくれるかと思った。もう恋人になれなくてもせめて、昔の相棒として祝福してくれるかと」 「そ…んなために結婚したのかよ!」 結婚についての種明かしをするバーナビーに、馬鹿!と叫んで虎徹は彼の腕の中で顔をあげた。するとすぐ真上に、眼鏡をかけていない綺麗な緑の瞳があった。至近距離から虎徹を見つめ、真摯な色を宿してうるんでいる。 「好きです」 ささやきはほとんど吐息のようだった。その瞳にはほんのりとまだ酔いの色があったが、数刻前のような狂乱の色はない。酔いに任せて言っているわけではないのだ。まっすぐに虎徹を見つめて、己の気持ちが伝わるように祈りながら大切にその言葉を口にしている。 「ごめんなさい、好きです」 ごめんなさいと謝られて、虎徹はどうしたらいいのかわからなくなってしまう。謝ることなんてない。そう言われて自分はうれしかった。社会的にどうでも結婚が契約で感情がともなっていない以上、誰かを好きだと言うことはいけないことではないと思う。そして虎徹はそれを迷惑だと思うどころか、嬉しく感じている。 バーナビーに非はない。あるとしたら虎徹の方だった。だけどなにが間違っていたのかわからなくなって、混乱しながら虎徹はうめいた。 「俺は…おまえに幸せになって欲しくて」 「しあわせ、ってなんですか…?」 虎徹を大切そうに抱きしめて、かすかにほほえみながらバーナビーは言った。苦しげで痛みをかかえているような表情。だけどそれはどこか溶けている。それが虎徹を抱きしめているからだ、と思うのはおかしいだろうか。バーナビーは夢見るような瞳で虎徹を見つめて、やわらかな声でささやいた。 「胸が苦しくていっぱいで、その人がいさえすればなんでもできる気がして、いま死んでもいいって思うけど、もったいないから死にたくないって、そういうのはしあわせとは言わないんですか?」 甘いその声は睦言そのものだ。ものすごい告白をされている気分だった。バーナビーはしあわせの定義を話しているのにすぎない。だけどその目はそのやわらかな声は虎徹への思いをたたえていて、その甘さに溶かされてしまいそうだった。 「だって、でもそんなの…続かないだろ?」 「え?」 「俺みたいなおっさんといたって、未来なんてない。いつか愛想をつかすだろ?ならさ…ちゃんと女の人と結婚して、子供もつくって家族になって…その方が幸せだろ?」 そうだ、自分はそう思って五年前彼から離れたのだ。いま目の前にある甘さに流されそうになりながらも、言い訳のようにそう思い出して虎徹はそれを告げた。そんな風に言い訳しなければ、離れた理由さえ思い出せなくなっていたのだけれど。 「ねえ…もしかして」 「なんだよ」 バーナビーは虎徹の言葉を聞いて、少し驚いたように目を見開いて彼を見つめてくる、そんなバーナビーの視線に落ち着かなくなりながら、虎徹はその腕の中でわずかにみじろいだ。どうしてか自分がとてつもなく愚かで駄目な人間になった気がする。それはきっと、バーナビーの視線が呆れたようなものだったからだろう。なにが駄目なのかわからないが、その目は虎徹に駄目出しをしている。 「僕の気のせいなのかもしれないんですけど、それだったら謝りますけど」 「だからなに」 「あなた───僕のことが好きなんですか」 「っ……!」 いらだって問い掛けを重ねれば、いきなり予想外に核心を突かれた。反射的にカアッと顔を赤くしてしまって、言い訳しようもなくバーナビーの問いに答えを与えてしまっている。 バーナビーは信じられないものを見るように虎徹の顔をまじまじと見つめると、真っ赤になった彼の顔を包み込むようにぎゅっと抱きしめてくる。虎徹の体はもはやすっかりベッドの上に引きずりあげられ、靴を履いたままベッドの中でバーナビーに抱きしめられている状態だった。 バニー、靴…という虎徹のつぶやきを無視して、彼は抱きしめた虎徹の頭のてっぺんにキスを落とした。それから腕をゆるめて彼の顔をあげさせると、今度は額に、それからまぶたの上に、頬にくちづけてくる。 「僕は永遠を信じてる子供だった」 祈るようなそのくちづけに一瞬なにもかも忘れて陶然となる。愛されている、という実感がじわじわと虎徹の中に湧き上がる。綺麗で才能があって地位も財産もあるなにもかも持っている三十歳の、だけどさみしがりで生きるのが下手でかわいくて仕方がない愛しいバーナビーが、一度彼を捨てた自分を選んでくれる。その奇跡にふるえながら虎徹は彼の言葉を聞いた。 「永遠なんてない。あなたは僕に結婚してしあわせになれって言いましたけど、結婚すればずっとしあわせでいられるわけじゃない。結局努力が必要なんです。仲の悪い夫婦なんてごまんといますし、憎みあって夫婦が殺し合うような事件だって当たり前に転がっている事象です」 五年間離れていた。それは永遠を信じる子供に、虎徹が永遠を与えてやれないがために選んだ別離だった。ずっとずっとしあわせでいて欲しい。それには自分では足りないから。自分ではそれを与えてやれないから、と離れたはずだったけれど。 そのバーナビーはいま、永遠なんてないと言う。永遠のしあわせなんてどこにもない、と。それも悲観的な意味ではない。しあわせは自力でつかみ取るものだと、そんなポジティブな意味でそれを口にする。 「あなただって奥さんが亡くなってしまったからわかりませんけど、本当はいまごろ愛想をつかされて離婚していたかもしれない。お互いに駄目なところが見えて険悪になっていたかもしれないでしょう」 「っ…おまえ!」 「すみません…でも、僕の言っている意味わかりますよね?」 死別した妻のことを口にされて一瞬激高しかけた虎徹に、謝罪しつつも悪びれずにバーナビーは言う。瞳をのぞき込まれればその言葉が間違っていないことなどわかってしまって、虎徹は返す言葉を失った。 それはそうだ。途中で失われてしまっただけで、友恵が生きていたらどうなっていたかなんて誰にもわからない。それと同じように、五年前あのままバーナビーと一緒にいたとして、どうなっていたかなんてわからないのだ。そしてこの先もし彼と共にいることがあったとして、その先に待つものなんて神様でもなければわからない。 互いに不幸になるのか、しあわせになれるのか、そんなことはこの二人じゃなくても誰もがわからないでいることで─── 「あなたが好きです…あなたにそばにいて欲しい」 虎徹の額に額をくっつけて、吐息がかかる距離でバーナビーがささやく。この距離では表情は隠せない。瞳の奥に隠したはずの本心さえ見抜かれてしまうから。 「僕はどうなるかもわからない五年後や十年後の幸せより、いま目の前にある幸せをつかみたい」 「んな刹那的なこといって」 「五年後も十年後も幸せでいたいなら、努力すればいいんです」 五年前に彼の幸福のために虎徹が手放したはずの青年は、再び虎徹の手を取って、幸福は自分でつかみとるとそう宣言する。それは努力して勝ち得るものだと。永遠に変わらない幸福の形などありえないのだと、そう虎徹に教えている。 「あなたが…僕をしあわせにしてください」 甘えるような口調でそう言って、バーナビーは虎徹のくちびるに軽くキスをした。虎徹の存在を乞うくちづけ。そして自分が虎徹にしたことを許して欲しいと願うくちづけ。さらにはこの先にあるものすべてに、祝福を与えるくちづけ。 十以上も年下の人間に人生のあり方を教えられた気分で、虎徹は自分の愚かさに少し笑った。自分の方からバーナビーにキスをして、それから彼がしたように額をくっつけてささやく。 「────おまえが好きだよ」 ささやいた言葉は、じんわりと自分の中に染み込んで腹の中に落ちた。それは内側からじわじわと虎徹をあたためていく。そのぬくもりの名前を知っている。一人では味わえないもの。努力して勝ち取るもの。それは───幸福と言うのだ。 「ずっと好きだった。離れたくなかった。けど…俺じゃ駄目だと思ってて」 「馬鹿ですね」 「そう…だな」 こつんと額を軽くぶつけてそう言われて苦笑した。馬鹿だというその声はひどく甘い。自分を見つめているバーナビーの顔がパッと花開いたように綺麗で幸福そうで、かつての自分の選択がおおいに間違っていたことを思い知る。 そうだ、馬鹿だった。こんなに大切な青年を五年前手放した自分は、本当に愚かだった。離れたくなかったのに、バーナビーだって離れたくないと思っていてくれたのに、お互いに望みもしない別離を選んだ。それは虎徹の愚かさと怯懦が選んだ未来だった。自分といることでバーナビーが不幸になったら…とそのおそれがそれを選ばせた。 虎徹は努力せずに放棄したのだ。バーナビーを自分の手でしあわせにしてやる、というその未来を。 「だいたいあなたのおせっかいはいつでも的を外してるんです。なんですか、僕に幸せになって欲しいって。僕がこの五年間、あなたがいなくてどんな思いで過ごしたと思ってるんですか。的外れもいいところです。正反対です。だまっていなくならずにちゃんと僕に話せばよかったんです」 額や鼻先を虎徹のそれにすり寄せながら、言葉だけは厳しくバーナビーが言う。けれどその声は甘くて、ほとんど睦言のように聞えた。 けれどあの頃のバーナビーと話したところで、虎徹は自分といて彼が幸せになれるとは信じられなかっただろう。たぶんバーナビーもそれはわかっている。だからこそ虎徹を見つけても、無理に追っては来なかったのだろう。 「五年間つらかったのは俺もだよ…」 五年の歳月は無駄ではなかったと思う。思うけれど、この五年間の自分とバーナビーの気持ちを考えると、なんて馬鹿なことをしてしまったんだと思う。彼に関する報道を見て胸を痛めた日々を思い、虎徹はバーナビーの首筋に顔をうずめて、小さく息を吐いた。 「おまえが結婚して幸せそうでよかったなって思ったけどさ…すげー胸が痛くて。だから会いになんて来れなかった。自分から離れたくせに、なんで他の女とほいほい結婚してんだ!って嫉妬まるだしになったかもしれないし」 「……嫉妬してくれたんですか?」 「嫉妬なんかするよ。おまえ散々いろんな女と噂されるし!」 バーナビーが少し嬉しそうに言うのに、むかっとして金髪を軽くひっぱると、ガンッと頭突きをして怒鳴った。 「だいたい、なんだよ。奥さんのことはわかったけど、俺と再会してからも他の女と寝てただろ!?甘ったるい香水の匂いさせやがって。あんとき俺がどんだけむかついたか!」 「あなたに再会してから他の人とセックスなんてしてませんよ……正確に言うとしようと思ったけどできなかったというか」 「できなかった?」 「────あまり深く突っ込まれたくありません」 虎徹が問い返すと、バーナビーは憮然とした表情でそう言った。しなかった、ではなくできなかった、の意味を考えればおのずと答えは出て、やっぱり他の誰かとしようとしたんじゃないかというむかつきと、男として気の毒な気もして虎徹はなんとも言えない表情になった。 「あれもあのままいくとあなたを抱きつぶしそうで…夢中になってるのを知られたくなくて、他で発散しようかと思ってみただけです」 だめでしたけど、苦笑するバーナビーの表情に雄くささをかぎとって、虎徹はどうにも落ち着かない気分になる。彼の腕の中でもぞもぞと身じろぎすると、バーナビーは虎徹をぎゅうっと抱きしめ直して、耳元で吐息のように言った。 「あー、セックスしたい」 「おい……」 甘やかな空気の中での即物的な言葉に、カッと赤くなって虎徹はバーナビーの体を軽く押し返した。バーナビーはそれを許さずに、むずがる子供のようにぎゅうぎゅうと彼を抱きしめてくる。 「あなたを抱きたいな。ひどいことなんてなにもせずに、やさしくやさしくして、ぐずぐずに溶かして気持ちよくしてあげたい。気持ちよくなりたい」 「おまえ、いまできねーだろ」 ねだるような甘い声に体がうずくような気がしながらも、ひどい酔いの後遺症でまた沈没しそうになっている彼を見て、虎徹は諭すようにそう言った。バーナビーは眠りたくないのに眠ってしまいそうになっている、とろとろとした声でささやいた。 「ええ…正直、頭が痛くて話すのもきついです」 「そうだ、おまえ秘書に連絡しろよ?仕事放り出してるんじゃねーの?コンシェルジュには言っといたから倒れてたとかじゃないのはわかってるだろうけどさ」 「いいです仕事なんて。社長ひとりいなくたって仕事なんてまわります」 「おまえな」 虎徹が以前言った言葉をそのまま口にするバーナビーに呆れて、小言を返そうとしたらそれを防ぐようにキスをされた。半ば眠りに落ちていっている状態で何度かキスされて、やわらかな声でささやかれる。 「起きてから…ね」 別の意味もこもってそうなささやきに、とろとろと幸福を感じた。眠りに落ちていくバーナビーの体温。普段は低いそれが眠気のために少し高くなっていて、それを抱きしめ返すことが馬鹿みたいにしあわせだった。 このしあわせな気持ちをバーナビーも感じてくれていればいい。この先ずっと、この感覚が続けばいい。それを自分が与えられるなら、そのこと自体がどれだけしあわせだろうか。その努力をこれからはずっとしていくのだ。 「あのさ…」 「なんですか」 これ以上の言葉は聞きたくない、とでも言うように虎徹を抱きしめて寝る体勢に入ったバーナビーに苦笑しつつ、その髪をくしゃりと撫でて虎徹は言った。 「とりあえず靴ぬがねえ?」 虎徹がそう言うとバーナビーは眠そうな目をちょっと開けて、彼を見返してくる。数秒見つめあって、それから二人してくすくすと笑った。笑って、そしてごそごそと足を動かして靴を蹴飛ばして脱ぐと、二人はようやく本当の眠りに落ちていったのだ。 同じ夢を見るための、幸福な眠りに。 next back |